~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第一章 他の者を救おうとすれば自からその中に飛び込め
第一章 (5-01)
── とんだ夾雑物きょうざつぶつが入った!
佐藤は残念でんらなかった。母親の古くさい軍人の妻気質が、厄介なものとして、眼の前に立ちふさがった。心が重かった。いらいらした。
── 何だって、中隊長は、母親なんかに知らせたんだろう?
中隊長の気持は分からなくはない。だが、事を母親にまで知らせたということは、中隊長が自分をまだ一人前の人間として扱っていない、その証拠を突きつけられたようなもので、それが口惜しかったのである。
久しぶりで家へ帰る佐藤は、心も重ければ、足も重かった。今頃、学校では佐々木や武藤候補生らが中隊長室に集まっているだろっよ思うと、自分一人だけが何やら刑罰もようなものを負わされて、遠くへ追いやられているような気がしてならなかった。
── しかし、中隊長は、武藤らを集めて、どんな話をするつもりなんだろう?
考えてみたが、よく分からない。多分話術の旨い中隊長のことだから、あれやこれや雑談のうちに、士官候補生は国家改造熱にうかされてはいけない、という例の持論を、巧みに出すのだろう、と強いてそう断定した。
門を入って、玄関に向かって行くと、庭との間の垣根越しに日当たりのいい縁側が見え、そこに姉の節子がミシンを持ち出して洋裁の仕事をしていたが、勝朗のカーキー服を見つけると、
「ああ、来た!」
といった顔で、いそいで起ち上がった。
玄関の扉が、内側から開いた。薄暗い玄関の中で、姉の色白な顔が明るくゆれた。黄色いスウェーターに、茶のスカートをはいている。この姉は要塞で生計が立つほどの腕があって、勝気で、実際家である。
「今日は、いつもより早いわね」
姉の声が、明るく響いた。
「うん」
勝朗は、いくらか仏頂面で、軍靴の紐をといた。
「お母さま・・・勝っちゃんよ!」
節子が、家の中に向かって、声をかけた。
「ハイ」
居間のどこかで母親の返事が聞こえ、畳を踏んで来る気配がした。
だが、勝朗はそっちには見向きもしないで廊下づたいに茶の間に入り、仏壇に向かった。仏壇の上には、勝朗が生まれた年に青島で戦死した父親の軍服姿の写真が飾ってある。仏壇の中には白と黄の菊の花のお菓子が供えてあった。
勝朗は仏壇から一間ほど手前の畳の上に正坐し、軍帽を傍らにキチンと置いた。真白い士官学校生徒の手袋をぬぎ、いかめしく八字鬚をはやした父親の写真を仰いで、畳の上に手をついた。
「勝朗、ただいま帰りました」
それから起って、仏壇に線香をあげる。
それがすむと、その間じゅう後ろに坐っていた母親と姉に向かって、
「ただいま」と軽く頭を下げる。
それでようやく、勝朗は幼年学校へ入学して以来、日曜外出で家へ帰って来るたびにやらされるしきたりから、解放されるのである。
しきたりから、解放された勝朗は、越しにブラさげている牛蒡剣ごぼうけんの帯革を、急いではずした。それを見やりながら、姉が聞いた。
「勝っちゃん、お腹すいてる?」
これもしきたりのようなものである。姉や母親は、士官学校の生徒というものは、しじゅうお腹をすかしているものと、頭から決めている。
「ううん」
勝朗は無愛想にかぶりを振った。
「あら、おかしいわね、勝っちゃんがお腹がすいてないなんて・・・」姉がわざとらしいはしゃぎ方で言った。「今日は、多分勝っちゃんが来るだろうと思って、ご馳走をいろいろ用意してあるのよ」
「その果物でもくれ」
勝朗は茶箪笥の中に見える富有柿をさして、大人っぽく言った。その柿も、勝朗のために用意したものらしかった。
勝朗は茶の間を出て、廊下の籐椅子に腰をおろした。部屋の中では何となく重苦しく、息ぐるしさを覚えたからである。
「勝っちゃん、おひるは、お肉がいい・・・それとも勝っちゃんの好きなバラずし?」
柿をむきながら、姉が聞いた。
「両方とも、いいね」
勝朗が面倒くさそうに答えると、
「あーら、あきれた!」姉はまた大げさな声をあげた。「欲がふかいのね・・・急にまた、大した食欲ね!」
節子は皿に盛った柿を母親に渡し、柱時計をふり仰いで台所の方へ出て行った。
母親が白い果物皿を盆に乗せて、運んで来た。次に紅茶を二つ卓の上に乗せて、、さてそれから息子と向かい合わせに腰をおろした。
2021/11/24
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