~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第一章 他の者を救おうとすれば自からその中に飛び込め
第一章 (5-02)
母親は、夏頃来た時よりも、幾分痩せて見えた。だが、聞かないし、気のせいだろう、と勝朗は紅茶をかきまわし、柿を頬張りながら、庭先へ眼をやった。
縁側の近くに、花壇めいたものが作ってあって、バラと菊が植えてある」。菊は仏壇にあったのと同じありふれた白い菊で、バラは最近植えたものらしく、枝が切ってあって、切ったところから出ている小枝には、赤い小さな花がついている。あたりは庭木の枯葉が一面に散らばっていた。
── もう秋も過ぎたんだから、植木屋を入れなくちゃ、いかんのじゃないかな・・・それとももう遅いのかな?
そんなことを考えるともなしに考えていると、
「勝朗さん・・・」
と母親がいくらか改まった口調で呼んだ。
振り向くと、母親の面長な顔がすぐ目の前にあった。どうも少し近すぎる感じだった。
「昨日、あなたの区隊長の方が見えて、いろいろお話は承りましたが・・・そのことについて、中隊長からあなたにお話がありましたか」
「ありました。中隊長殿は、失礼した、とお詫びしてくれ、とのことでした」
「何も失礼はありませんけどね・・・どうもわたしとしても解しかねるものだから、わたしだけの考えを申し上げたのだけど・・・あなたの考えは、どうなんですか」
母親の眼はピタッと息子にそそがれた。
勝朗はその視線にいくぶん圧迫をおぼえたが、それでもそれを押し返すように、母親をまとみに見返して、
「あれは、自分が申し出て、中隊法の中隊長の承認を得たので・・・いわば自分から買って出たことなんです」
「買って出た、といいますが・・・それでは、勝朗・・・あなたは、スパイを買って出たんですか」
「スパイ?」
勝朗はちょっと詰まった。眉をひそめた。── 何と言うイヤな言葉が存在しているのだろう?
勝朗はつとめて自分を冷静に持ちこたえて、
「スパイといえば、あるいはそう言えるかも知れませんが・・・ただのスパイではありません。まだ一人前でない士官候補生の仲間が、国家改造熱にうかされて、溺れかかっているのを、助けるために・・・」
一語一語押し出して言ったが、しかし複雑な気持のニュアンスは、言葉ではとうてい表現できないもどかしさに、勝朗は喘いだ。
「それは伺いました。友達を助けたい、というあなたの気持はよく分かるし、美しいことだと思いますがね・・・その美しいことをするために、スパイにまでなるということが私にはどうしても解せないのです」
母親は静かに言ったが、しかし最後の言葉の語尾は、ふるえを帯びたきびしい語調であった。
「それは、はたから見れば、そう見えるかも知れませんが、自分のような渦中にいる者には、美しいだの何のと言ってる余裕がないんです。すでに彼らは溺れかかっているんですから、一緒になって泳いで、別な岸へ引っ張って行くより他に、方法がないんです・・・だからこそ、中隊長も、自分の申し出たことに、承認を与えてくれたんす・・・!」
勝朗は言葉を拾いひろい、懸命に言った。
いつの間にか、節子が傍らに来て、たたずんでいた。スカートの上に、小さなサロン前掛けをつけている。
「私には、あなたの言うことは、もっともな理屈もような気がしてなりません・・・節子はどう思いますか」
「やめて、勝っちゃん・・・」と節子は、勝朗の肩にいきなり手をかけてゆさぶった。「そんなことは、たとえ理屈がどうであろうと、悪いことだわ。友達の行動を探索して報告するなんて、そんなの、いけないことだわ・・・止めましょうよ、勝っちゃん!」
「いや、やめない!」勝朗は、いまや自分の気持を相手に理解させることの出来ないもどかしさに、腹を立てて、心を頑なにしていった。「オレの気持は、中隊長殿しか、わかっていないんだ・・・オレは悪い事をしているんじゃない、むしろいいことをしようとしているんだ・・・だから、オレはあくまでやるんだ・・・」
勝朗の眼には、今はうっすらと涙さえにじんでいた。
── 困った・・・・どうしましょう?
母と姉は、そっと顔を見合わせて、ため息をついた。勝朗は子供の時分から泣き虫のくせに、強情である。泣き出したらテコでも動かない。亡父の剛直な気質を、妙な風に受け継いでいるのだった。母と姉も、いつか涙を流していた。勝朗が口惜し涙なら、こちらは困惑の涙だ。
「勝朗さん・・・」しばらくして母親が言った。「あなたは、どうしてもやると言いなさるが、それでは、あんたのやることは、神明に誓ってやましいことではない、とはっきり誓えますか・・・お父さまに、そう誓えますか」
「誓えます」
勝朗はキッパリと言い切った。
「そう」母親はこっくりとうなずいて、「それでは、私は安心しましょう。あなたが正しいと、信じましょう」
母親はそう言うと、息子に和服を出してやるために、よろめくように起ちあがった。
2021/11/25
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