~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第二章 朧気おぼろげなる事を仮初かりそめうべないて
第二章 (1-01)
暗くて冷たい、三畳ほどの独房──周囲は分厚い板壁と、三寸角位の頑丈な木格子。天井の高い所に、十燭光ほどの電灯が一つぽつんと灯っている。房の中央は地面より三尺ほど高くした板敷で、その上に薄っぺらな茣蓙ござが一枚、板敷の左右は通路になっていて、一隅に畳んだ毛布が重ねてあり、反対側の一隅には流しとかわや──そこから絶えず臭気が流れ出ている。
ここは「刑務所」という名称の概念からはほど遠い、話に聞いた江戸時代の「牢屋」そのものだ。──後で年とった看守から聞かされたのだが、この刑務所の建物は。江戸時代の有名な小伝馬町の牢屋をそっくりそのまま移築したもので、板敷の床を三尺ほど高くしてあるのは、侍分の者に待遇を与えた名残だという。
── そうすると、オレ達はさしづめ将校待遇を与えられている訳だろうが・・・それにしてもおかしいな・・・オレを、おうしてこんな所へブチ込んだんだろう?
佐藤候補生は、刑務所の「在監者心得」の規則に従って、板壁から一尺ほど離れた所に木格子に向かって坐ったまま、しきりに考え込んだ。だが、いくら考えても分らないし、納得が行かないのだ。それに十二月の火の気のない牢獄の寒さが、四方八方から情け容赦もなく青い囚人衣を通して襲いかかり、まるで氷を張った水の中に坐らされているような責め苦であうr。思考のメリハリが利かない。それに安坐 ── 幼年学校から六年間椅子生活に馴れた肉体には、これは拷問のようなものだ。十分もじっとしていると、折り曲げた脚の知覚神経がなくなり、痛さが木か石のような重さに変わる。そいて四方八方から襲いかかる寒さ ── 腰部から下と上とが別々になり、胴ぶるいと一緒に、歯の根が合わなくなる。腿の上に突っ張った腕がガクガクとふるえ出す。
── なに糞ッ・・・糞ッ・・・糞ッ!
呼吸を詰めて、下腹に力を入れ、眼を宙にすえて、歯を喰いしばる。すると、いくらか抵抗力が出て、瞬間、精神と肉体との均衡きんこうが保てる。
そこで佐藤は、考えつづけていることを考える。
── オレは、何だって・・・こんな所へ・・・ブチ込まれたんだろう?
具体的に起こった事柄と、自分とが、どうしてもぴったり一致しないのである。── 十二月五日の夕方、佐藤は区隊長に付き添われて、隣りの中隊の武藤候補生らと一緒に青山の第一師団司令部軍法会議の予審廷に出頭した。だが、それは「証人として」であって、司令部のどこかに一室を与えられ、取調べが済めば、学校に帰されるものと思っていた。
師団司令部に出頭する時、辻中隊長は佐藤に向かってこう言っていたのである。
「候補生、気の毒だが、十日ばかり証人として行って来い」
軍法会議 ── この何やらコケおどしの未知の世界に対する不安はあったが、しかし佐藤は中隊長のその一言を百万人の味方として、勇躍「仲間」と一緒に出頭したのだ。悪びれる気持は少しもなかった。だからこそ、佐藤は二台の自動車に分乗した「仲間」と、まるで遠足に連れて行かれる中学生のようなはしゃぎ方で、ガヤガヤ談笑しながら出かけたのである。もっとも未知な世界に対する不安から顔をそむけるために、無理やりツケ元気を出していたのでもあったが・・・・。
師団司令部について、案内された部屋は法廷の控室であった。瓦斯ストーヴが暖かに燃えていた。
「── 瓦斯ストーヴのある部屋に通されるなんて・・・なかなか乙じゃないか」
誰かがそう言ったので、みんなドッと笑った。それで一瞬、みんなの、互いにそれとは言わないが、緊張した心がほぐれた。幸先のいいような、くみしやすいような気分もわいた。で、また一層ツケ元気が出て、ストーヴを取り囲んで、ガヤガヤと談笑を取りかわしていた。
暫らくすると、付添いの田中区隊長が呼ばれて、別室に赴いた。二分、三分・・・
── 何だろう?
不安な、緊張した空気が室内を支配した。みんなは談笑をやめて、押し黙った。
間もなく田中中尉が出て来たが、何で呼ばれたか分らないうちに、上等兵の肩章をつけた看守が、
「佐藤候補生・・・・!」
上等兵にくせに生意気な奴だ、とすぐ軍隊特有の階級意識 ── 佐藤は軍曹の肩章をつけている ── が頭へかけのぼったが、思えばこの呼び出しが、牢獄への第一声であった。
2021/11/30
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