~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第二章 朧気おぼろげなる事を仮初かりそめうべないて
第二章 (1-04)
看守に続いて佐藤、それから区隊長・・・暗い渡り廊下を数間進むと、倉庫のような陰気な建物の中に入った。薄赤い電灯が点々と灯っていた、と思って、よく見ると三寸角の格子のはまった独房 ── 牢屋だった。絵で見、話に聞いた牢屋だ! たった今着せられたのと同じ服装の囚人が、電灯の下にポツン、ポツン・・・と坐っている。
佐藤は耐え難い気分におそわれ、一瞬身を退くようにして立ち停まりかけた。可能ならば、逃げ出したかった。
── これに入らされるのか、この中に・・・厭だ!
だが、目の前には看守が事務的に歩いて居り、後には付添いの田中区隊長が黙ってついている。佐藤は、そのまま眼に見えない、むを言わさないような強い力に引かれて歩いて行った。
看守が一つの房の前に立ち止まって、扉口を開けた。
「入れ」
佐藤が入ると、うしろでガチャリ・・・と重い錠前の音がし、扉が物々しく締まった。
檻 ── 頑丈な檻の中へ閉じ込められたのだ。三寸角の木格子が、区隊長との間を完全に遮断してしまった。窒息感で、胸元が息苦しい。
助けて下さい ── そんな思いで、格子を隔てて区隊長の顔をみつめたふぁ、区隊長は横向きの格子の前にたたずんだまま、何も言わない。ただ押し黙っている。区隊長はチラッとこちらを振り向いた。何やら悲痛な面持ちであった。
「実に尊い体験だ」区隊長は歯の間から押し出すように言った。「佐藤候補生、この尊い体験を生に生かすんだな。正しい者は、必ず勝つよ!」
「・・・・」
何か言おうと思ったが、思いが胸に一杯で、言葉にならない。
で、そのまま黙って突っ立っていると、区隊長はつと格子から離れて、ぶらぶら先の方へ歩いて行った。が、しぐ戻って来た。
区隊長は格子の寄り添って、そっとささやいた。
「片岡中尉も入っているぞ」
片岡中尉も ── 何か重いものが一つ胸にドスンと落ちて来たような気がしたが、それが何であるかは、まだ佐藤にはピンと来なかった。で、ただ上の空で聞いた。
少し経つと、区隊長が振り向いた。
「じゃ、帰るぞ」
そして区隊長は廊下に靴音を残して、出て行った。自由な世界へ・・・・。
佐藤は檻の中へ取り残された。武藤はどうしたろう? やはりこの檻の中に閉じ込められているのだろうか・・・片岡中尉も入っているとすれば、みな一様に収監しゅうかんされているに違いない。
佐藤は所在なさをもてあました。檻の中を恐るおそる見廻す。暗くて、冷たくて、何やら臭い! 見ると奥の一隅に流しと厠がある。異臭はそこから流れ出ているのである。板敷が三尺ほど高くしつらえてあるので、その隅へ腰を下ろして、板壁にもたれかかった。なんだかひどく疲れを覚えたのだ。
すると、格子の前で声が躍り上がった。
「こらッ、馬鹿、何をしとるか・・・壁にもたれちゃいかん!」
びっくりして跳ね起きると、格子の外から看守の意地悪そうな眼が睨んでいた。狐みたいな奴だ。
「壁から一尺離れて・・・東を向いて、坐れ!」
狐が言った。
東がどっちか、考えても分らない。
「どっちが東ですか?」
「こっちだ」
看守が指した方向は、隣りの房との間の板壁だった。
板壁に向かって、黙って坐る。突落された、みじめな気持・・・屈辱で、眼頭に涙がにじんだ。
じっと歯を喰いしばって、
「何か・・・規則書のようなものは、ありませんか」
「今 持って来てやる」
横柄な看守が立ち去った。
すると一瞬ホッと気持が弛んで、堪えていた口惜し涙が、一つ二つ・・・膝に上へころがろ落ちた。不覚の涙・・・・。
── 一体、オレはおんな悪いことをしたんが・・・ああ、お父さん、護って下さい・・・助けて下さい!
自宅の仏壇の上に飾ってある亡父のいかめしい軍服姿が、眼頭の中でゆれた。
靴音がして、看守が戻って来た。
「これをよく読め」
バサリと小冊子が格子の間から投げ込まれた。手にとってみると、「在監者心得」── 第一頁から丁寧に読んで行く。
すると次のような文句にぶつかった。
『── 父母ノ居所ヲ拝シ、家名ヲ汚シタル其ノ不幸ヲ謝スベシ」
「── 糞ッ」
佐藤は歯噛みをした。── オレは、いつ家名を汚した・・・何を悪い事をした?
カン、カン・・・カン、カン・・・カン。カン・・・金の音が流れて来た。「心得」によって。それが就寝準備と分かったので、寝床を延にかかった。毛布は、すり切れていて、ひどく程度の悪いものだった。数えると、五枚しかない。一枚を敷いて、四枚を掛けることにして、冷たい茣蓙の上にのべた。そしてどうやら延べ終わった。
すると格子の外で、声がした。高くはないが、憎々し気な声だった。
「馬鹿ッ、まだ毛布を延べるんじゃない・・・そのまま巻いて、隅の方へ置け!」
一々「馬鹿」がつく。そんなことは「心得」にも書いていない。それにたった今入監したばかりで細かい規則が分かる筈はないではないか。
2021/12/01
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