~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第二章 朧気おぼろげなる事を仮初かりそめうべないて
第二章 (1-05)
腹立ちまぎれに、小便に立った。厠は、二尺五寸平方位で、深さは三尺もあろうか。蓋を左右に起こして、中に入れるようになっている。底を覗くと、大きな木製の便器が置いてあった。それに向かったまま立って放尿すると、また背後で声がした。
「馬鹿ッ、しゃがんでやれ!」
途中でやめて、中へ入ろうとすると、
「こらッ、靴下をはいたままで入っちゃいかん!」
だが、厠には草履はないのだ。
従順な奴隷のような惨めな気持ちに突き落とされ、命ぜられた通りに靴下を脱ぎ、素足で汚い、冷たい煉瓦の上に立って、それから蹲んだ。イヤな音が股間のすぐ下で起こった。それと一緒に、掻きまわされた生暖かい臭気がまともに顔に来た。、
── ああ、お父さん、助けてください・・・ぼくは、一体何をしたんです?
カン、カン・・・カン、カン・・カン、カン・・・鐘が鳴った。こんどこそ就寝準備である。方々の監房で毛布をのべる気配がする。急いで、巻いた毛布をのべた。そして宮城 ── とおぼしき方角を遥拝し、学校と家の方に向かって、頭を垂れた。
カン、カン、カン・・・三度目の鐘だ。ドスン、ドスン・・・方々で就寝の音がする。佐藤は、それにならって、急いで毛布のあ間へもぐり込んだ。
寒い・・・なんとも寒い! それに藁布団の寝台に馴れた背骨には、毛布一枚、茣蓙一枚を通しての板敷は、痛くて、そこからも寒さが這いまわってくる。じっと歯をくいしばって耐えていると、それでもいくらか身体がぬくもってきた。だが、こんどは頭の芯が冴えて、少しも睡くない。色んなことが頭に浮かぶ。それが走馬灯のようにグルグル廻る。母親の顔が眼にうかぶ・・・年老って、淋し気な顔だ。
── ああ、あーッ・・・!
声にならない、絶望的な溜息が、胸をついて出る。
── オレは、どうしてこんなことになったんだろう? ただオレは、若い時から女手一つでオレを育ててくれたお母さんの大恩に報いようと、今日まで一所懸命に努力してきたんだ・・・オレは何も悪い事をした覚えはない・・・ただオレは、学校で今まで教わった通りのことをやったまでだ・・・それが、どうしてこんなことになったのか?
中隊長の顔が浮かび、声が耳許でした。
「── 佐藤候補生。気の毒だが、十日ばかり証人として行って来い!」
── こらが証人に対する処置だろうか、これが・・・ああ、ああ、ああ、あーッ・・・!
ほんの少しまどろんだだけで、夜が明けた。
カン、カン・・・カン、カン・・・カン、カン・・・!
起床の鐘だ。跳ね起きて、毛布を手早くたたみ、隅に整頓する。こんなことは幼年学校時代から馴れきっている。次は洗面だ。流しの所へ降りる。
だが、この流し ── 一尺三寸に二尺五寸位の長方形の木の桝の上には、如蘆じょろのような妙な形の蛇口がある。ひねると、それでも水が出た。傍らの棚に竹の歯ブラシと小さな小箱がある。箱の蓋を開けると、匂いも何もない磨粉のような粉が入っている。鼻先に、汚い手拭のようなものもあるのが眼についた。手に取ってみると、五寸角位の、兵器の手入れに使う布みたいなものだ。
── これで何を拭くのか?
途端に、厭になった。── 顔なんか洗うもんか!
歯だけを磨く。だが粉がザラザラで、おまけに酸っぱい。
「ペッ・・・ペッ・・・」
吐き出して、水で口の中をゆすいだ。それでもいくらか気分が改まった。
宮城 ── とおぼしき方角に向かって遥拝をやり、つづいて「勅諭」の奉誦。
「── 一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。凡生を我国に禀くるも誰かは国に報ゆるの心なかるべき。況して軍人たらん者は此心の固からでは物の用に立ち得べしとも思われ會。軍人にして報国の心堅固ならざれば如何程技芸に熟し学術に長ずるも猶愚人にひとしかるべし。其隊伍も整い節制も正しくとも忠節を存せざる軍隊は事に臨て烏合の衆に同じかるべし」
「── 一、 軍人は礼儀を正くすへし、 凡軍人には上元帥より下一卒に至るまで 其間に官職の階級ありて統属するのみならす 同列同級とても停年に新旧あれは 新任の者は旧任のものに服従すへきものそ 下級のものは上官の命を承ること 実は直に朕か命を承る義なりと心得よ
「── 一、 軍人は武勇を尚ふへし 夫武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは
我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし、況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは
片時も武勇を忘れてよかるへきか。さはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす。
血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し」
「── 一、軍人は信義を重んずべし。凡信義を守ること常の道にはあれどわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交わりてあらんこと難かるべし。信とは己か言を践行ふみおこない義とは己の分を尽くすをいうなり。されば信義を尽くさんと思わば始めより其事の成し得べきか得べからざるを審かに思考すべし、朧気なる事を仮初にうべないてよしなき関係を結び後に至りて信義を立てんとすれば進退きわまりて身の措き所に苦しむことあり、悔ゆとも其詮なし」
奉誦しているうちに、いつか涙が頬をつたわって流れ落ちた。涙は、あとからあとからと、あふれ出た。何の涙か? 教え込まれた「勅諭」の簡潔でしかも崇高な精神が、肺腑をえぐる真実さをもって、身に迫ったのである。佐藤は「勅諭」の奉誦に、これほど切実な感銘をおぼえたことはなかった。この身のひきしまる感銘に比べれば、学校での朝々の斉誦など空念仏をとなえていたにひとしい!
2021/12/02
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