~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第二章 朧気おぼろげなる事を仮初かりそめうべないて
第二章 (1-06)
「・・・朧気なる事を仮初に諾いてよしなき関係を結び後に至りて信義を立てんとすれば進退谷りて身の措き所に苦しむことあり、悔ゆとも其詮なし」
佐藤は、あふれ出る涙の中で、はッとして、自分に対して大きく眼をみはった。
── オレが正にそれではないか?!
佐藤には、何だか「勅諭」の文句が自分のためにあったような気さえしたのだった。
佐藤は呼吸をつめて、自問自答した。
「── お前は、朧なる事を仮初に諾って ── 今度の事件を引き起こしたのではないか?」
「── いや、そうじゃない。オレは自分の信念に基づいてやったのだ。少しもやましい所はない」
「── それでは、なぜそのように進退谷まっているのか?」
「── 当局の不当な処置に対してフンガイしてるんだ・・・朧気なる事を仮初に諾いてよしなき関係を結んだのは、むしろ武藤候補生らだ」
「── しかし武藤らは、お前よりずっと落ち着いて、元気でいるぞ」
「── それは彼らがまだ朧気なる事を仮初に諾ったことに、自分で気がついていないからだ・・・いまにそれが分かる時が来る」
「── お前は、その信念にあくまで自信あるか?」
「── 自信はある」
だが、佐藤の自問自答は、長くは続かなかった。監房の生活がそれを妨げたのだ。
「在房者、裏側向けーェ!」
看守の号令がかかった。在房者たちの動作の音 ── 佐藤は後向きになり、板壁に向かって正坐した。
ガラガラと車で物を運ぶ気配だ。どうやら朝食の配給らしい。誰が配給しているのか。多分囚人だろうが、在房者を後向きにさせるのは、その囚人たちと顔を会わせないためだろう。
「── 正面向けーェ!」
号令がかかった。正面に向き直る。
「── 喫食準備」
「── 喫食!」
見ると、パンだ。痰壺みたいな陶器の碗に白湯が一杯、それにメンコが一つ ── メンコの蓋を開けると、コーヒー色をした液体が入っている。コーヒーだt思って、一口飲むと、塩辛い。変なコーヒーだな、豆くさい味だ・・・そいう思って匙でかきまわすと、小豆汁だった。
パンを手にする。分量は、学校の半分もない。三分の一ぐらいだ。手で裂く。と、カチカチだった。十分ふくれていない。出来損ないのパンである。
── どこからこんな物を仕入れるのか。それともわざとこんな風に作るのか・・・?
黙って、噛った。
「在房者、裏側向けーェ!」
後向きになって食べていると、ガラガラ車をひいて、食器集めに来た。
味気ない朝食のあとの空白時・・・ポツンと正面向いて坐っていると、
「── 便器を出す準備!」
看守が何やら大声でどなりちらしている。
ガチャ、ガチャリ・・・次々と錠前の音がし、扉口を開ける。一人ずつ、大きな便器を抱えて、よたよた歩いて行く、ふと見ると、武藤が行く・・・佐々木も行く・・・中国の便衣隊みたいな囚人服を着て、大きな便器 ── その中には自分の排泄物が入っている ── を抱えて通る恰好は、まったく見られた様ではない。思わず噴き出しそうになる。だが、笑ってはいけないのである。心得に「紊ニ笑顔ヲナシ憤リヲ現スベカラズ」と書いてある。それに自分もまた同じ恰好をしなければならない運命にあるのだ、と佐藤は笑いをかみしめた。
── オレの西隣は次木候補生、次が荒川候補生、東隣りは佐々木候補生、次が武藤候補生だな。
便器搬出のおかげで、「仲間」の所在が判明した。
黙って、坐っている。曲げた脚が痛い。組んだ足首を上に下に、しじゅう組みかえる。退屈だ・・・退屈でやり切れない。どこかでわざとらしい大きな欠伸が聞こえる。
バン・・・ババン、バン・・・
小銃の音が聞こえる。あまり遠くではないようだ。
── 一体、ここはどこだろう?
見廻って来た看守に、そっとたずねると、
「代々木の原っぱの一隅だ」
看守はそっけなく言って、通り過ぎた。
道理で、小銃の音が聞こえるのだ。太陽のさんさんと降りそそいでいる自由な世界が、すぐ目と鼻の先にあるのだ。
佐藤は、数日前MGの教練を、いそいで頭へかけのぼらせた。息もつげないような忙しい教練だった。機関銃掃射・・・
「今度は刑務所の方向だ!」
状況を示す区隊長の飛び上がるような声が、今でもハッキリ耳底に残っている。
すると、あの時の丘陵の向こうに見えた黒っぽい屋根の建物 ── オレが機関銃にしがみついて右に左に掃射をあびせた ── あの建物の中に、今オレは坐っているのか?
陸軍刑務所がある事は、佐藤も知っていた。だが、それがどんな所かは、佐藤は具体的には何も考えたことはなかった。それが陸軍にとって必要か、どうかさえも。
ここに入れられたオレは、犯罪者なのか。一体、オレはどんな罪を犯したというのだろう・・・正しい、と信じてやったことの報いが、これか?
── 中隊長殿。早く自分をここから出して下さい。中隊長殿は、自分の正しいことを知って下さる唯一の方です・・・早く出して下さい・・・犯罪者と同じ扱いを受けるのは、何としても屈辱に堪えません・・・一日も厭です・・・厭です・・・厭です・・・!
2021/12/03
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