~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第二章 朧気おぼろげなる事を仮初かりそめうべないて
第二章 (3-02)
佐藤は、もう拘留を「またとない尊い経験」として、読書にはげむ気持はなくなった。戦術の書物も頭へ入らない。そこで彼は漫画の「のらくろ軍曹」の本ばかり広げて、日を過ごしていた。
すると、辻中隊長が面会に来た。入所以来、もう数度目の面会であった。
「候補生、元気か、勉強しているか」
知事は慈父のような微笑を浮かべて、優しく畳かけて聞く。
「ハイ、元気でありますが・・・自分は、勉強は絶対にやらないことに決めました」
辻はキョトンとした眼をあげて、
「そりゃ、どういうわけだ?」
理由は山ほどある。自分をこんな所へ放り込んだ不当さ、陳述をそのまま受け取らないで、作り事のように見ようとする取調べの意地悪さ・・・まだある。ありすぎて、一口にはうまく言い現わせないのだ。
佐藤が詰まったまま黙っていると、辻は佐藤を見やりながら、
「そりゃ、いかんね」と曇った顔で言った。「この環境じゃ、中隊長も勉強出来るかどうか、分らん。そかし、中隊長なら少なくとも勉強しようと努めるヨ・・・石田三成は、刑場へ引かれる途中で、『茶がほしい』というと、護送の役人が水しかないと言って、水を持って来た。だが光成は、『生水は身体に毒だ』と言って、とうとう飲まなかった・・・この気持だ! 最後まで自重慈愛するのが、大丈夫の心境だ。われわれの身体は、御上に捧げた身体だ。候補生が『お父さんの跡も継がない、御上に不忠でもかまわない』と言うのだったら、勉強などしなくともよかろう。しかし中隊長はそんな生徒は作らんぞ。候補生がどんない辛いか、どんなに苦しいか、十分想像はつく。しかし正義貫徹のためだ。あくまでしっかりやらなけらばいけない。候補生は、最初この渦中に身を投ずる時の尊い決心を忘れてはいけない。流れに溺れる人を救うために、身を投じたんだ。多少の苦痛は、覚悟していたはずだ。まかい間違えば生命を失うことも承知の上でやった筈だ。それだけの覚悟をもって、苦しみに打ち勝つ努力をしなければいけない・・・いまは、何やら正を正として認めてくれないが、必ず正しいことは正しいと分かる時が来る。楠木正成は五百年後においてはじめて大忠臣とおうことが分かったではないか。それまでは正成さえも逆賊の汚名をきていたのだ。知己を千載に求めるんだ。決して正義が一時雲に蔽われたからといって、歎いたり、ヤケになったりしてはいけない・・・!」
辻一流の話術と説得力である。
「分かりました・・・自分が悪うございました・・・今日から心を入れかえて、しっかり勉強いたします」
佐藤は堪えていた涙を、膝の上にポタポタ落とした。
翌日から、佐藤は気持を取り直して、勉強にとりかかった。朝飯を喰うと睡気をもよおすので、ほんのちょっと箸をつけただけでやめた。
すると看守がそれを見付けて、怪訝そうに格子に寄って来た。
「どうした・・・腹でもこわしたか」
「別に・・・食べたくないから・・・残したんです。食べたくなれば、食べます」
いい加減な答えをした。
すると次木候補生がそれを聞いていたらしく、運動場で顔を合わせた時、先輩らしいいたわり方で忠告した。
「佐藤、めし食わにゃいかんぞ」
佐藤は笑って、
「しかし朝食を抜くと、昼食がうまいですからね」
そうごま化した。
二、三日後に佐藤は運動場で武藤と一緒になった。二人きりだった。看守は話をさせないために、しじゅう運動の組み合わせを変えるのである。
武藤は顔色が悪く、何やら元気がなかった。いつも運動場へ出て来るとすぐ走り出すのだが、その日は走らないで、ただブラブラ歩いていた。その歩き方にも元気がない。
佐藤は一緒に歩きながら、
「元気がないな・・・どうした?」
低声でたずねた。
すると武藤は「うん」ろ肯いて、
「オレは生きとるのが、厭になった。自殺しようかと思う・・・便所の中へ入って、蓋を閉めたら、窒息して死ねやしないかしら・・・?」
満更嘘ではなさそうな、真剣な顔つきだった。
佐藤はギクリとして、あわてて励ました。
「貴様、何をいう・・・もう少しだ。峠も越えたじゃないか・・・頑張れ、頑張れ!」
「うん、しかしな・・・」武藤はますます元気のない様子で、眼を宙にすえたまま、「ここを出たって、どうせオレらは退学処分だろうしな」
「なに、そんな事あるもんか・・・大丈夫だよ」
そう言ったものの、それは佐藤にも自信がなかった。取調べの進行 ── というよりは堂々めぐりの停滞から推すと、当局はどうやら事件の処置に困っているようである。村中らを叛乱予備罪で起訴すれば、事件は方々に波及し、混乱を招くおそれがあえう。といって叛乱企図をもって陰に陽に士官学校生徒を扇動した事実を無根とすれば、辻大尉を誣告罪に問わなければならない。村中、磯部らは、どうやら事件は辻大尉の陰謀だ、と主張しつづけているらしい。士官候補生たちも村中の尻馬に乗って、「辻サンのインチキ」と決めて、騒いでいるようだし、当局もだいぶその主張に引きずられている節がある。つまり佐藤の自発的行為を、自発ではなく、辻中隊長の命令に基づく行為ではないか、と嫌疑をかけているのだ。
2021/12/07
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