~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第二章 朧気おぼろげなる事を仮初かりそめうべないて
第二章 (3-03)
── 中隊長があぶない・・・ひょっとしたら、中隊長は辞めさせられるかも知れんぞ?
そう思うと、佐藤は居ても立ってもいられない気持に駆り立てられる。自分の軽率な行為のために中隊長が辞めさせられる・・・それは考えただけでも堪らないことだ!
── 辻中隊長が辞めさせられたら、オレも市ケ谷台を去ろう・・・だが、そうしたら、一体辻中隊長の白を誰が証明できるか・・・畜生! 口惜しい! 陸軍こそインチキだ・・・インチキもインチキ、大インチキだ・・・これが天皇の名による軍法か? 陸軍の腐敗堕落、これより甚だしきはない。だからこそ、クーデターの企画が跡を断たないのだ。
佐藤はそれを思うと、自分こそが監房の壁に頭を打ちつけて憤死したい、と思う。佐藤の胸には、毎日眺めている板壁の爪文字 ── 恐らく囚人が爪で書いたものだ ──「死」「自殺」などの文字が、呪いの実感として迫るものがあった。
だが、それにしても武藤候補生を何とかして元気づけてやらなければならない。それもまた同期生として、同じ囚われの境遇にある者の義務だ、と佐藤は考える。
二日後に、佐藤はまた武藤候補生と運動場で一緒になった。武藤は相変わらず元気のない様子で、ブラリブラリ歩いている。
だが、佐藤は武藤にかまわず走った。狭い囲みの運動場を、五回、十回、十五回・・・とグルグル走り廻りながら、ふと、渋谷とおぼしきあたりの空に、灰色の広告気球があがっているのが眼にとまった。上天気で、空はあくまで青く、その空の中に灰色の怪物がふわりふわり浮かんでいるのである。滑稽でもあれば、のどかでもあった。気球の下に、大きな文字がさがっているのだが、裏返しでよく読めない。佐藤は次第に走る速度を落として、しまいには武藤と並んで歩いた。すると裏向きの文字が、ようやく判読で来た。
「──『久遠の誓』『恋の一夜』SY道坂キネマ ──」
映画の広告である。── 映画見物は、士官学校では禁ぜられているので、見たことはないが、それでも広告気球を眺めていると、娑婆の空気がすがすがしく感じられて、懐かししい!
「おい、武藤・・・あれを見ろよ」
佐藤は顎をしゃくって言った。
「うん、気球があがっとるな・・・久遠の誓・・・恋の一夜・・・か。映画の広告じゃないか」
武藤は別段心も動かされないらしく、詰まらなそうな顔つきである。
「おい、もうすぐ出れるぞ」と佐藤は追っかけてささやいた。「早ければ一週間・・・遅くとも十日後だ」
「どうしてだ?」
武藤の顔にキラリと表情が動いた。
「昨日、村中大尉が出廷したろう・・・あれで取調べが全部終わったんだ」
佐藤は武藤を元気づけるためにあてずっぽうに言った。
「なるほど、そうか」武藤は眼を輝かせた。「じゃ、出れるな」
自殺を考えている武藤にも、出所は悪くないのだ、と佐藤は察した。── だが、十日経っても出所出来なかったら、どうしよう?
その時は、その時のことだ、と佐藤は僚友を元気づけたことで自分も心が引き立ち、足をあげて大股に歩いた。
翌日の夕方、「面会人だ」と看守が迎えに来た。学校の仲間からの手紙によると、今日から演習に出払った筈なのに、誰だろう? と不審を抱きながら面会室に入ると、辻中隊長が面会机の向こうに坐っていた。
── 演習に行かなかったのかしら?
佐藤は机の前の椅子に、向かい合って腰を下ろした。
「候補生、元気か」
辻は、いつもの訊ね方たずねる。だが、その顔はいつもと違って、生真面目に引き締まっている。
「落着いているか」
「ハイ、落着いて居ります」
「勉強しとるか」
「ハイ、やっとります」
すると辻は、佐藤のよく光る眼をじっと見返して、いくぶん改まった調子で、
「候補生は、どんなことがあっても、ビクともしないだろうね?」
「大丈夫であります」
「うん、そんなら言うが・・・中隊長は、代わったよ」
「・・・?」
佐藤はハッと呼吸を詰めたまま、中隊長を見守り続けた。予期しない事ではなかったが、早すぎたし・・・何よりも中隊長を辞めさせられたことが、受取り兼ねるのである。
佐藤の大きく見ひらいた眼からは、涙も出なかった。
「後任は、総監部の重松少佐だ」辻の言葉は途切れがちに続いた。「どうも子供と・・・無理やり別れさせられたような・・・気持だ」
辻の眼がうるんで、世にも寂しそうな顔になった。佐藤は思わず視線をそらした。
「もう成果は論じない」ややあってつじは言った。
「だが、正しいことさえやっていれば、それでいいんだ・・・候補生がやった正しい行為も、いつかは分るよ。決してヤケになるな。もう暫くの辛抱だ・・・じゃ、身体に十分気をつけてな」
辻は寂し気な、肩を落とした歩き方で帰って行った。
看守に連れられて房へ帰ると、佐藤は耐えていた涙がこみ上げて来た・こらえてもこらえても、涙はあふれ出た。佐藤は茣蓙の上に突伏して、思う存分泣いた。
2021/12/08
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