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~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第二章 朧気おぼろげなる事を仮初かりそめうべないて
第二章 (4-01)
佐藤ら士官候補生は、新任の中隊長重松少佐の出迎えを受けて、九十日ぶりで市ヶ谷台の学校へ帰ると、その日から「謹慎」を申し渡された。まだ「起訴、不起訴」が決定しないので教練にも学科にも出なくてもよい、というのだった。そこで候補生らは、身のまわりに「看守」も居ない、釈放された自由をしみじみと噛みしめながらめいめい静かに自習室に籠っていた。
帰校した翌日、佐藤の母親が面会に来た。獄中で何度も見た母親 ── 思いなしか、母親は白髪がふえ、面やつれしている。
── 御心配をかけた!
よ思うと、佐藤の胸には最初からこみあげてくるものがあった。
母親はそういう息子を、いつもと変わらない慈しみの眼をもって見守りながら、静かな口調で言った。
「勝朗さん、今度のあなたのやった行為は、わたしにはよく分かりません。けれども、私はあなたの母として、あなたを信じます。あなたのしたことが良心に恥じない行為であれば、それでいいのです。世の中の人たちが、たとえどのように言おうと、世人の毀誉褒貶きよほうへんは、意に介する必要はありません。私は、いつもあなたの味方です・・・ただ母として、私があなたに望むことは、正しいことは正しく行えということだけです」
佐藤は一言も弁解しなかった。また一言も喋る必要ななかったのである。
「御心配をおかけして・・・・申し訳ありません」
ただそれだけ言って、頭を垂れ、あとは涙があふれ出るに任せた。
母親は、その息子の背中を、彼が小さい子供だった頃してやった仕ぐさで、黙って撫であすった。
数日後に、佐藤は中隊長が「重謹慎三十日」の処分を受けたことを知った。何のための重謹慎? 理由は明らかにされなかったが、しかし佐藤に対する責任を問われての処分であることだけは、蔽うべくもない事実だ。
── 中隊長殿に、何の罪があるんだ・・・舘かを罪にしたいならば、なぜオレを罪にしないんだ? 退校処分にでも、何でもしたらいいじゃないか。オレは反省してやましい所がないから、名誉の退校を誇って、大手を振って市ヶ谷台を下ってやる・・・それなのに、何の罪もない中隊長殿を、理由の明らかでない罪にするとは・・・何かが間違っている・・・大間違いに間違っている!
佐藤は歯噛みして、そう思った。
事件は、間もなく「証拠十分ナラス、不起訴」と決定した。村中、磯部、片岡の三青年将校は停職の行政処分をうけ、佐藤を含めて五名の士官候補生は一様に退校処分になった。── ここでも何かが間違っている、と佐藤は思った。
まるで喧嘩両成敗のような、妙な処分決定であった。
事件は、最初「支配階級ヲ打倒センコトヲ企図シ以テ叛乱ヲ陰謀シタルモノナリ」との犯罪事実に対する嫌疑を以て、軍法会議の審理に移されたのだった。それが三ヶ月にわたる審理の結果、「証拠十分ナラス、不起訴」── ということになったのである。
この決定について、デマがみだれ飛んだ。
デマの一つは、この間の「真相」として、事件の処分決定に関しては、陸軍省は「微罪、起訴猶予」、検察官は「微罪、不起訴」、第一師団長は「証拠ナシ、不起訴」などの意見が出たが結局、第一師団長の意見が通って、「証拠十分ナラス、不起訴」となったのだ、と伝えた。これは暗に柳川中将が、皇道派の勢力安定のために、事件を握りつぶしたことを指摘するものである。
もう一つのデマは、「十一月二十日事件は村中大尉以下八名以外に、戸山学校の大蔵大尉、歩三の安藤大尉、戦車二の栗原中尉らを収監して審理すれば、犯罪事実が確定したに違いない」というものであった。これもまた、事件を村中大尉らの小範囲に限定したことに対して、派閥勢力の作為があったかのような疑惑を、方々にバラまいた。
これらの風説に対して、「不起訴」で釈放された村中、磯部をはじめ、皇道派の青年将校たちは憤慨し、事件は片倉少佐と辻大尉の「陰謀」で、なかんずく辻大尉が士官候補生をスパイに使って「でっちあげた芝居だ」と騒ぎ立てた。つまり陸軍内部における皇道派の勢力を破砕して、自分らの勢力を扶植しようとしてたくらんだ「陰謀」だというのである。
佐々木ら四名の候補生も、今ではすっかりそうだと信じている。
次木候補生が憤慨して言った。
「馬鹿みたな、九十日もあんな所へブチ込まれて・・・結局、辻サンのインチキだったんだなあ!」
「貴兄は、なぜそんなことを言いますか、日頃辻中隊長を信頼していたくせに?」
佐藤が少しムキになってらしなめると、次木は、
「なに、釈放される直前、軍法会議に行く自動車で村中サンと一緒ンなったとき、何もかもみんな聞いたタイ。結局、辻サンの芝居だったんだ ── 一番馬鹿を見たのが貴様だ ── 要するに、国家改造運動には辻派とか、村中派とか、いくつも派があるんだ。辻サンは、村中派が邪魔になるから、こいつらをやっつけるために一芝居打ったんさ。癪にさわるのゥ。いままで辻サンを信用しとったけン、恨みが尚更大きかタイ・・・今度会ったら、つば吐っかけてやる!」
2021/12/11
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