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~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第二章 朧気おぼろげなる事を仮初かりそめうべないて
第二章 (4-02)
いまや辻大尉は、四面楚歌の中におかれた。重謹慎三十日の処分を受けて、渋谷の偕行社住宅に閉じ篭っている辻の許には、悪罵あくばを連ねた手紙や怪文書が、しきりに舞い込んだ。
── 陰険な策謀家、辻大尉をやっつけろ!
そして夜、辻の家の雨戸に石を投げつける者がある。玄関の前まで来て、近所に聞こえ渡る大声で悪態をつく者がある・・・辻がたまりかねて、飛び出すと、その者はサッと逃げる。それが毎晩のように繰返された。
それがために「さすがの辻も夜は枕許に軍刀を置き、細君は拳銃を抱いて寝ている」との風評が立った。
また辻大尉に関しては、こんな噂も流布されていた。── 彼が最初中隊長をやめさせられて士官学校附となった時、時の幹事酒井鎬次少将は辻に向かって言った。
「辻大尉、身体がヒマひなったら、候補生教育に関すり君の蘊蓄うんちくを傾けて、一つ意見書を書いてくれんか」
それに対して辻は答えた。
「自分の教育の仕方が悪いと言うので、中隊長をやめさせたのでしょう・・・中隊長の落第生が書いても反古にされるだけではありませんか」
「ハハハハ、これは一本参った」
酒井幹事は額を叩いて苦笑した。
辻大尉は重謹慎三十日の行政処分を受けた時、どうにも解しかねて校長末松茂治中将にじかにたずねた。
「自分は、どうしてこういう処分を受けなければなりませんか」
「さあ、それを聞かれては困る、この処置は自分の一存でやったことではないから」
「それでは教育総監の命令でありますか」
「そんなことは自分の口からは言えぬ」
末松校長は何もかも見え透いた逃げを張った。
辻はその足で教育総監部に、真崎教育総監を訪れた。副官の取次も待たずに、辻はいきなり総監室のドアをノックして入った。腰には指揮刀でなく、軍刀を吊っていた。
「申告に参りました・・・」
辻は行政処分を受けたことを型の如く申告してから、おもむろに訊ねた。
「さきほど士官学校長に、こんどの処分の理由を伺いましたところ、これは自分の一存でやったことではない、と言われました。校長の一存でないとすれば、総監の御意志と推察するほかはありませんが、理由を明らかにしていただけないでしょうか」
すると総監はあわてて、
「オレは知らん、オレは知らんぞ」と言った。「士官学校長が責任をもってやることだ・・・オレは知らん」
「そうでありますか、それでは自分から申し上げますが、そもそもこの事件は・・・」
辻が説明しようとすると、
「ちょっと待て」総監は顔色を変えて押しとどめた。「今度の事件について、当事者の君からちやかくの議論が出るとなれば・・・血でも見なければ納まらないかも知れんぞ」
「血を見るとは、どういうことでありますか。自分は最初から・・・」
辻も興奮しているから声の調子が高くなった。真崎は椅子から起ちあがって、辻の腰のあたりを、何となく注視した。抜くかも知れない、と真崎は思ったらしい ── 抜いたら、この男は厄介だ!
隣室から、本部長の林大佐が飛び込んで来た。真崎と辻は睨み合いの形で、突っ立っている。殺気のようなものも感じられた。
「辻大尉、何か知らんが、声が高いぞ・・・用件はオレが聞くから、オレの部屋へ来い」林大佐は辻の腕を取って、無理やり本部長室へ連れて行った。そして色々なだめたり、すかしたりしたが、辻は林大佐にまで喰ってかかって引き揚げた、という。
だが、そういう噂の辻は、三十日間の重謹慎が満了になると、黙々と連帯に赴任して行った。
水戸の連隊長は、横山勇大佐 ── 彼は苦労人であり、義俠に富んだ男でもあった。中傷と迫害とに逐われて来た辻を、温かく受け容れた。
だが、ここにもまた辻に対する誤解と圧迫が待ち伏せていた。事情を知らない青年将校の中には、風評や怪文書だけの知識で、氏を「怪しからん奴だ」として、着任の晩、二次会に引っ張り出して殴った者があった。辻は一言も弁解しないで、黙って殴らせた。
誤解と中傷に取り囲まれて、辻は孤立無援であった。わずか連隊長の思いやりが唯一の拠り所であったが、しかしそれだけでは心に受けた傷は癒えなかった。で、彼は夜になると、ひそかに家を抜け出て、公園の中にある明治維新の無名戦士の墓地へ行って坐った。維新の際藩内の闘争から生命を捨てた人達であった。明治維新は、これらの無名戦士の屍の上に築かれたのである。その時はいたずらに流されたように思われた血も、長い時を経て見れば、決して無駄ではなかったのだ。
「オレも一介の無名戦士になろう!」辻は自分に言いきかせた。「陸大同期生のトップとして、いやしくも人後に落ちないようにと勉強もしてきたが、思えばそれも人の上に立ちたい、衆に抜きん出たいという虚栄に過ぎなかった。二番だろうが、十番だろうが、いや最後尾でもよい。人に知られようとせず、君国のために黙って死ぬだけの覚悟が出来てこそ、はじめて軍人と言い得るのだ。無名戦士になろう!
辻は、黙々と勤務第一に励んだ。
2021/12/11
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