~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (1-01)
ほんの一瞬間の出来事であった。通り魔の仕業とも言えよう。──
その朝九時四十五分ごろ、軍務局長永田鉄山少将は、陸軍省の明るい局長室で、東京憲兵隊長新見大佐の所管事務の報告を中心に、山田兵務課長や橋本軍事課長らと、ちょっとした打ち合わせをする手筈になっていた。ところが隣室の橋本軍事課長が来ないので、近くの山田大佐が橋本を呼ぶために席を起った。新見大佐は書類をひろげるために、局長の事務机にあった軍帽と湯呑を背後の鋼鉄製の書類箱の上に片付けて元の椅子にもどった。その瞬間、背の高い、頬骨が突出て眼光の鋭い、歩兵の襟章をつけた中年将校が抜身の軍刀を手にして迫って来るのが、新見の眼に映ったのだ。山田大佐が隣室へ入ったか、入らないかの間のことだった。
新見には、はじめその男が何か冗談を仕掛けて来たように思われた。それで笑おうとさえした。だが、その笑いは引きつった。抜刀して近づいて来た将校の眼は異様な光をおびて居り、その態度は息の詰まるような真剣さで、威圧以上のものが感じられたからである。瞬間、あっけに取られて見守っていると、中年将校は新見の背後を廻って、永田局長に近づいた。
新見の視覚に、局長が顔色を変えて起ちあがり、机を廻って難を避けようとした姿が映った。
その瞬間、
「── 天誅!」
声がした、と同時に、局長の右肩のあたりに白刃がサッと閃いた。袈裟がけに斬りつけたようである。
── やった!!
新見はようやく自分が阻止しなければならない立場にいることに気がつき、無我夢中で犯人の腰のあたりに抱きついた。だが、抱きついた、と思っただけで、次の瞬間には猛烈な力で振り飛ばされ、尻餅をついた。起き上がろうとしたが、何やら身体中の力が抜けて起き上がれない。左の上膊部にしびれるような鈍痛をおぼえたので、見ると、いつの間に斬られたのか、血が噴き出ている。
犯人は、と見ると、隣りの軍事課長室に通ずる扉口まで逃げた局長を追って、背後から心臓部めがけて、拝むような格好で刺し通した。ブスッ・・・と鈍い音がしたようであった。犯人は刀を引抜いた。と、局長はヨロヨロと泳ぐような格好で引き返した、と思うと、衝立の向こうにある丸卓子のそばまで、そこで仰向けにばたッと倒れた。犯人は大股に局長に近づき、頭部から頸動脈にかけて、もう一ト太刀打ちおろした。とどめを刺したのである。
それを見て、新見は気を失った。
その時、隣室から、
「── おさえろ、おさえろ!」
にわかに騒ぐ声がして、廊下の方で、
「── 相沢、相沢!」と呼ぶ声が走った。
時間にして、わずか二十秒ぐらいの間の出来事である。
犯人の相沢は、血刀をさげたまま廊下に出た。そして自分を呼びたてる上ずった声を聞いた。山田大佐の声であった。
── 何だ。山田大佐はここに居たのか。
卒然と我にかえって、そう思った。というのは、相沢は抜刀して局長室に入った時、二人の将校が局長の事務机の前に居たのを見かけ、その一人が顔見知りの山田兵務課長であることをチラッと認めたのだが、あとは自分が兇行を演じている間、山田大佐はどこに居たのか見当たらなかったことに、改めて気付いたからだる。
相沢は何やら周囲が立ち騒いでいることに重ねて気が付き、急いで血刀を鞘に納めた。その時、左掌がいやにべとついたので、眼の前へ持って行くと、指の腹が四本共深く切れて血を吹いていた。永田を背後から突刺した時、左手を持ち添えたので、その時か、刀を引抜く時かに切ったものであろう。
相沢はポケットからハンカチを取り出して、左掌をくるんだ。そしてそのまま中廊下をゆっくりと歩いて、別棟の山岡整備局長室へ赴いた。そこは相沢が台湾に赴任する荷物 ── スーツケースが置いてあったのだ。
2022/01/05
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