~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (1-02)
山岡重厚中将は、相沢の士官学校時代の懐かしい生徒隊長である。だが、この朝、相沢は最初から山岡整備局長を訪問する予定ではなかったが、それが急に局長室を訪れたのは、千駄ヶ谷の西田方を出てすぐ拾った円タクが、間違えて陸軍省の裏門に車をつけてしまったからだった。山岡局長の部屋は、その裏門から近い所にあった。
はじめ円タクを降りて、そこが裏門だ、と知った時、相沢は不快げに眉をくもらせた。
── 幸先が悪い!
しんな気がしたのだ。途中わざわざ宇治山田に一泊して伊勢神宮に参拝し、前夜東京へ着くとしぐその足で明治神宮の社殿にぬかづいた・・・その一途の祈願もダメになったかと、がっかりした。
だが、一瞬後には、彼は自分を取り直した。そんなことで気崩れするようでは、まだ自分というものがしっかり出来ていない証拠だ、と思い返したのである。と同時に、山岡局長室が裏門に近いことに気づき、局長を訪問して台湾赴任の挨拶を述べ、併せて局長が最近中将に進級されたお祝いも言上しよう、と思いついたのだった。
山岡局長は、折よく在室していた。
相沢が入って行くと、局長は見ていた書類から顔をあげて、
「よう」
懐かし気に声をあげた。
相沢はしゃちこ張った態度で挨拶とお祝いを述べた後、山岡中将をじっと見つめて、
「閣下は、いつもお若いですな」
珍しくお愛想を言った。
「ああ、若いよ」と山岡は肯いて、「悪い事をしない者は、いつも若いさ、心に曇りがないからな」
冗談めかして、声をあげて笑った。
だが、その冗談口には何やら毒が含まれていた。陸軍内部における派閥の勢力争いや権謀術策を、言外に指弾しているのだ。相沢はそれに対しては何も言葉をさしはさまなかったが、心の底で深く同感するものがあった。山岡中将は、どっちかというと永田一派に対しては、反対的な立場に居たのである。
給仕が茶を運んで来た。
「君」と相沢は給仕に向って言った。「永田軍務局長が部屋に居られるか、どうか・・・見て来てくれんか」
「ハイ」
給仕の少年はかしこまって出て行った。
山岡中将は相沢を見つめた。
「君は永田局長に何の用があるのか」
だが、相沢は黙り込んだまま答えなかった。
山岡中将、追っかけて、
「君が永田局長に会うのはいかん。いろいろ迷惑をする者がある・・・会うことは止めろ・・・あうことはいかん」としきりにとめた。
それでも相沢は黙っていたが、やがて顔をあげるなり、改まった調子で、
「閣下」と言った。「時局は重大です・・・閣下は、国家のため、しっかりやって下さい」
「オレはやらん」
山岡は言葉を投げ捨てるようにして、外ッ方を向いた。
「なぜです? どういう訳ですか」
相沢はむきな表情で、詰め寄った。
「どういう訳かって?」
山岡はゆっくりと視線を返して、
「貴様も、永田に会う理由を何も話さんではないか・・・そいう貴様に何か言われて、オレがハイハイということをきけるか」
すると相沢はパッと一歩飛びさがるような様子をして、慇懃に、
「悪うございました。永田局長の所から帰ったら・・・お話し申し上げます」
そこへちょうど給仕が帰って来て、永田局長の在室を告げた。
「では、後ほど・・・」
相沢は、山岡中将にそう言葉を残して部屋を出たのだった ──
その相沢が、五分経ったかたたないうちに、戻って来た。相沢の態度は、前と少しも変わりはなかったが、左手にハンカチを巻き、それにおびただしく血がにじんで滴り落ちている。
「その手はどうしたんだ?」
すると相沢は、山岡をまっすぐ見つめ、
「永田閣下に天誅を加えて来ました・・・」
まるで報告でもするかのように言ってから、眼を自分の左手に落とした。
「はっきり覚えてませんが、永田局長を刺した時か、刀を引抜く時か・・・粗相して切ったようです」
「その血を止めにゃ・・・」
山岡はポケットから急いで真新しいハンカチを取り出して、相沢の手首をきつくしばってやった。
そのくせ山岡は、もう相沢をまともに見ようとはしないかった。いまや、この大それた、厄介な事件を引き起こした、気違いじみた昔の教え子にかかわりたくない、といった表情が、その無愛想な顔に露骨に現れていた。
電話のベルが鳴ったのをしおに、山岡は事務机に向った。受話器を取り上げて受け答えするのだが、その言葉は何やら上ずってシドロモドロだった。電話がすむと、山岡は黙り込んで机上の書類をめくった。別にそうする必要があったのではなく、自分の乱れた考えをまとめるために、半ば無意識にそうしている風だった。
そこへ大尉の肩章をつけた若い将校が入って来た。多分副官であろう。
山岡は書類から顔を上げて、相沢の血の滴る手を眼顔で示しながら、
「血を止める方法はないか」と、聞いた。
大尉はいぶかしげに相沢の左手に眼をやったが、すぐ、
「医事課で治療を受けられたらいかがですか」
歯切れのいい口調で、事務的に答えた。
── そうだ、医事課で治療して貰おう。
相沢もそう思った。すると、自然そういう様子になった。
それを見て、山岡が相沢に聞いた。
「君は、これからどうする?」
「はァ・・・」相沢はきょとんとした顔で、言葉を落とした。「これから台湾へ赴任します」
「そうか」
山岡は溜息をついた。度し難い男だ ── そんな表情が浮かんで、彼はまた視線をそらして黙りこくった。
あたりが次第に騒々しくなってきた。廊下を駈ける乱れた靴音が錯綜した。陸軍省全体が、突発事件に沸き立ったのだ。
「── 加害者は誰だ?」
「── 相沢という古参中佐だ」
そんな声が廊下でした。
山岡はきっとした顔つきになって、相沢を見た。
「君はここに居てはいかんから・・・医事課へ行って、治療してもらいたまえ」
「ハッ」相沢は不動の姿勢を取っていた。「それでは閣下、これでお別れいたします。どうか御壮健で・・・」
一礼すると、相沢は部屋の隅に置いてあったスーツケースをぶら下げて、部屋を出た。別に取り乱したところもなく、平然とした足取りだった。
2022/01/06
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