~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (2-01)
医事課には、給仕が案内した。
明るい医務室で治療を受けている間、相沢は無念無想の様子だった。だが、看護婦が繃帯をまいている時、ぼんやりと窓の外に眼をやっていた相沢の顔が、突然緊張に硬ばった。彼は身を乗り出すようにして、窓の向こうに見える陸軍省の玄関先に視線を釘付けにした。
玄関先には、赤十字のマークをつけた衛茂病院の自動車が来て停まったばかりだった。
── 病院の自動車が来た・・・と、すると・・・?
相沢はまじろぎもswずに見つめた。間もなく玄関の内部から担架が運び出された。担架の人は、毛布がかぶせてあるし、距離も遠いので定かではないが、明らかに負傷者である。担架は注意深く病院車の中に納められ、後部の扉が閉まった。
── やり損なったのか?
と、相沢は渇いた喉をヒクつかさた。生唾液を何度も呑み込んだ。
彼の記憶と手応えによれば、たしかに何かしら刃筋の立たなかったもどかしさが記憶に残っているところからすると、やり損なったのかも知れぬ。若しそうだとしたら・・・?
「── オレの腕は未熟だ!」
相沢は腹の底で呻いた。戸山学校でかつて剣道教官をつとめたことが、世にも恥ずかしく頭へかけのぼった。彼の剣道には定評があった。士官学校在学中から彼は剣道で頭角をあらわし、時の士官学校幹事だった真崎中将から「お前は剣道ですすめ」と言われ、自分でもその気で励んで来たのである。その名うての彼がやり損なったのである。
相沢はがっかりして、腑抜けのような状態になった。今はたた洞ろに見開かれているにすぎない彼の視角からは、赤十字のマークをつけた病院車は音もなくすべり去った。あとには陸軍省の正面玄関が白々と夏の太陽に照らされているだけだった。
相沢は、観念の眼をとじた。何もかも一切が天命だ、と彼は思いあきらめた。すると急に気持がスーッと軽くなった。
それにしても、目的は十分に達せられたのだ ── と彼は思い返した ── オレは、これ以上何もすることはない。あとは台湾に赴任して、与えられた任務に邁進すればよい!。
だが、相沢は誤認したのである。── 担架に乗せられて病院に運び去られたのは、永田ではなく、相沢の腰に抱きついて振り飛ばされ、左膊部に骨に達する刀傷を負った新見大佐だった。しかも相沢自身は、新見大佐を振り飛ばしたことも上膊部に負傷させたことも、一切記憶になかったのである。
相沢の治療は終わった。
背広姿の男が、相沢の傍らに立っていた。
「中佐殿」と背広の男は、囁くような、なだめるような調子で言った。「麹町憲兵分隊へちょっとおいでを願います」
「憲兵隊?」
相沢は坊主頭の背広の男をいぶかしげに見やったが、すぐに気軽にうなずいて、「用があるなら、行きましょう・・・」
それから彼は治療を受けた軍医と看護婦に丁寧に礼を言って、部屋の隅に置いてあったスーツケースを持ちあげた」
「それは自分が持ちます」
背広の男が駈け寄るようにして、取り上げた。
「有難う」
相沢は背広姿の後から、ゆっくりと医務室を出た
2022/01/06
Next