~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (2-02)
廊下へ出ると、相沢は急に立ち停まった。
「外へ出るのはいいが・・・」相沢は外へ出るのに軍帽がなくちゃあ・・・たしか永田軍務局長の部屋に軍帽がある筈だから、君、すまんが、取って来て下さらんか」
背広の男は、反射的にあいざわの中高な坊主頭に眼をやったが、すぐ視線を泳がせて、
「いや、構いません、自動車で行きますから」
そう言うと、相沢をうながして歩きだした。
相沢も仕方なく歩き出した。
「しかし、それにしても軍帽がなくちゃあ・・・それじゃ偕行社で買うから、自動車を先に偕行社へ向けてくれ給え」
相沢はしきりに言った。── 彼の思惑では、憲兵隊へ行って、ちょっと取調べを受ければ、それで事の理非善悪が明らかになり、自分は放免になる・・・それにしても、軍人が取調べを受ける際、軍帽なしでは恰好がつかないし、恥辱だ!
だが、背広姿の男はそれに対しても何も答えなかった。
会談の所へさしかかると、向こうから顔見知りの新聞班長根本博大佐が背を丸くして走り寄って来た。根本は、永田軍務局長の片腕と目されている男である。士官学校時代は相沢の下級生であったが、陸大を出て、中央の要職にあったので進級が早く、先輩の相沢を追い越して大佐に進級していた。
根本は丸めた肩先から大きく手をのばして、相沢に握手を求めた。何の握手? 根本は陸軍省内ではいわば永田派であり、相沢はその永田にたった今「天誅」を加えて来たばかりである。
だが、相沢は根本大佐の握手を、派閥を超越した正義を求める心の発露だ、と咄嗟とっさに解釈した。そして士官学校時代の下級生としての懐かしさだけを、急いで胸にかけのぼらせた。
「お国のために、しっかりやれ!」
相沢は階級を無視して、そう激励した。明らかに、取りのぼせていたのだ。
すると根本は、万感胸に迫って一言も言えないといった風で、黙ったまま、無暗につよく相沢に手を握りしめた。
根本大佐に別れて、階段を途中まで降りると、背後から重い靴音をひびかせて、調査部長の山下奉文少将が、二十貫余もあるかと思われる容貌魁偉ようぼうかいいな姿をあらわした。── 山下は、いずれかといえば永田ら統制派とは反対的な立場にあって、皇道派的な色彩が強く、いわゆる革新意見を持っていたので、皇道派の青年将校からも信頼されていた。そして相沢とは顔馴染みでもあった。
山下は階段の途中まで来て、上からしわがれた声で呼びかけた。
「相沢中佐、落ちつけ・・・静かにせにゃいかん、静かにせにゃ!」
相沢は振向いて、山下少将の姿を見つめると、微笑をうかべて、会釈して、ゆっくりと階段を降りた。
2022/01/06
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