~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (3-01)
戸山学校を飛び出した大蔵栄一大尉は、その足で、まっすぐ西田税の家へ赴いた。相沢中佐が永田軍務局長に天誅を加えたとすれば、相沢は前夜西田方に宿泊したのだし、大蔵も西田方で会っているので。二人は当然証人として憲兵隊へ引張られるだろう。それに二人とも相沢中佐とは特別親密な関係にあるので、たとえ前夜会わなかったにしても、証人として喚問されるにちがいない・・・・だとすれば、西田とあらかじめその対策を講じておく必要がある。
それに大蔵は、前夜相沢が「陸軍でいま一番の悪者は誰か」と子どもじみた質問をしたのに対して、「そりゃ永田軍務局長でしょうな」と答えたことが、変に頭にひかかっていた。扇動せんどうした結果になった、そんな気がしてならなかった。
西田は在宅していた。
「やりましたな、相沢中佐が・・・」
大蔵が言うと、西田は彼自身の情報網ですでに事件を承知していて、
「うん、やった」
起こるべき事柄が、当然起こったんだ、とそんな表情が、太い口髭を生やした西田の長い顔に、ふてぶてしく浮んでいた。
「われわれ、憲兵隊へ呼ばれるでしょうが・・・どうしますかな」
口裏を合わせておく必要があるだろう、とそんな顔で、西田を見つめた。
西田はその長い顔を腕組みの中に埋めるようにして考え込んでいたが、やがてゆっくりと顔をあげると、
「君は、相沢さんと会わなかったことにしようじゃないか」と言った。「相沢さんは、僕の家へ泊ったんだから、僕のことは言うに決まってるけれども、君のことは言わんだろう・・・言う必要がないものね」
大蔵は五・一五事件などでもちょいちょい憲兵隊で調べられた経験があるが、西田は右翼革命家としていわば札つきであったから、憲兵隊や警視庁での取調べでは、大蔵などよりはるかに経験者であった。
「そうですか、それじゃ、そういうことにしましょう」
翌朝、大蔵がいつもの時間に戸山学校へ赴くと、事務室に、第一師団軍法会議から大蔵への呼出状が来ていた。
「── 明八月十四日午前九時、第一師団軍法会議ニ出頭スベシ」
呼出状には法務官の名前と印が捺してあった。
大蔵はそれをもって戸山学校を抜け出すと、西田の家へ連絡に出掛けた。だが、西田の許にはまだ呼出し状は来ていないという。
「変だな。オレ一人に来るとは?」
大蔵が首をひねると、西田は事もなげに、
「いずれ来るさ」と言った。「来ずに済ますものか」
あとは憤った顔になった。
「それじゃ、私が一足先に行って、例の通り・・・あの晩は、私は相沢中佐には会わなかったことにしますからね」
ダメを押して、大蔵は西田の許を辞した。
翌朝、指定された時間に、大蔵は青山にある第一師団軍法会議の予審室に出頭した。係の法務官は、背広なので階級はさだかでないが、中佐ぐらいと推定される小男で、態度は鄭重であった。
調べ室は、三坪ほどの小部屋・・・真ん中に机と椅子があるきりで、ほかに何もない。
法務官は、相沢中佐が永田軍務局長を殺害した事件を知っているかどうかを確かめた上で、中佐との交遊関係をいろいろ訊ねた。大蔵は問われるままに、相沢との関係をスラスラと軍人らしい淡白さで答えた。するとそのうち、兇行の前夜西田方で相沢中佐と会見した顛末におよんだ。
「西田方で? そりゃ相沢中佐の思い違いでしょう」大蔵は肩を張るようにして言った。「自分は、あの晩は、翌日渡辺教育総監の初度巡視をひかえていたので、早く寝て西田方へは行かなかったです」
「そんなことはないでしょう。確かにあなたは行ってた筈だ」
法務官は、何度も同じ質問をくりかえした。
大蔵は西田との約束にしたがって、頑固に否定しつづけた。だが、同じ否定の言葉の繰り返しに、大蔵はあきあきし、しまいには自分が陥ち込んでいる状態のもどかしさに腹を立てて開き直った。
「それでは、誰か、私が西田方へ入るのを見ていたとでもいうんですか」
「いや、誰も見ていた者はない」法務官はゆっくりと言って笑いだした。「あなたはそう言うが、いくらあなたが否定しても、相沢中佐自身が、西田方であなたと会って、いろいろ話を聞いた、とハッキリ言ってるんだから、ダメですよ」
全く、ダメ ── と大蔵は感じた。相沢のことだから、何もかも一切正直にブチまけて喋ってしまったに違いない。
「いや、思い出しました・・・そうでした・・・私はあの晩、西田方へ行きました」
大蔵は空廻りする自分の言葉につまづきながら、汗をかいた。
一つのことを承認すれば、あとは全部を承認しなければならい。大蔵は、法務官の糸をたぐるような質問に答えて、相沢との会見の模様を全部喋ってしまった。全くムダな抵抗であった。余分な汗をかいてしまった。大蔵は自分の陥ち込んだ状態に落胆し、新たな腹立ちを掻き立てた。
「それでは、あなたは・・・」と法務官は自分の書いた調書と大蔵を等半に見ながら、勝利者の優越感をもってゆっくりと言った。「相沢中佐が『いま陸軍で一番の悪者は誰ですか』と質問したのに対して、笑いながら『そりゃ永田軍務局長でしょうな』と答えた。しかしそれは、相沢中佐が心中深く殺意を持っていたことには全然気づかずに、ごく一般的に、いわば世間ばなしとして、あなた方が考えている軍の在り方と異なるやり方を永田局長が中心となってやっておると考えたので、そう言った・・・と、まあ、そういう訳ですな」
「そうです」
大蔵は、もうどうでも勝手にしろ、といった面構えで、ぶすッと答えた。
正午になった。
「それでは、昼食を運ばせますから、ここでしばらくお待ち下さい」
法務官は、大蔵を残して出て行った。
入れ代わりに、当番兵がアルミニュームの盆に丼とお茶をのせて、運んで来た。丼は、カツ丼であった。
2022/01/08
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