~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (3-02)
大蔵は、一人ぼそぼそと食事をした。カツは丼は冷えていて、まずく、喉の通りが悪かった。で、彼はお茶をガブガブと飲んで、飯を胃袋へ流し込み、ようやく食事を終えた。
── オレはとうとう西田との約束を破った!
食事中もその思いは、大蔵の胸の中でわだかまった。喉の通りが悪かったのは、そのせいでもある。わだかまわりはだんんだん脹れあがり、眼の前に大きく立ちふさがった。息苦しいまでに窒息感をおぼえた。
── どうしてくれよう?
大蔵はじっと呼吸をつめたまま、西田に約束を破ったことを知らせる方法はないものか、と思案した。どうせ西田も遅かれ早かれ引張られるに決まっているから、その前に会って、口裏を合わせておく必要がある。彼は、自分がいま調べ室に押し込まれている青山の第一師団軍法会議の位置と千駄ヶ谷の西田の家との距離を、頭の中ではかった。円タクを飛ばせば、往復十五分ぐらいの距離である。部屋には、大蔵が一人置き放しにされたままである。小柄な法務官は、食事をしているのか、それとも大蔵の処置について上司の指示を仰いでいるのか、先刻出て行ったまま姿を見せないのだ。
大蔵は、自分の描いた冒険に、胸を強く締め付けられた。決意が頭の中を横切った。
── よし、脱け出してたれ!
脱け出る ── といっても、逃げッ放しのそれではない。円タクを飛ばして千駄ヶ谷の西田の家へ行き、西田と口裏を合せて、また舞い戻って来るのだ。ほんのちょっとした事柄をやってのけるだけだ。── 神よ、加護をたれ給え!
大蔵はそっと部屋を出た。廊下には誰も見当たらなかった。彼は便所へ行くようなふりをして ── 便所は数間先にあった ── 歩いて行き、便所の手前の出入口から戸外へ出た。そこはちょっとした植込みになって、あたりにはやはり人の姿はなかった。彼は、うまく行った、とほそく笑み、まっすぐに中庭を横切ろうとして、ふいに足を停めた。彼の調べ室から二つ三つ離れた部屋に、西田が沈思黙考の姿で腰かけているのが、窓越しに見えたからである。
「あれ、奴、来てやがる!」
大蔵は、声を呑み込んだ。彼の計画は挫折した・・・というよりは、もはや実行する必要がなくなったのだる。新しい事態に対して、大蔵の頭脳はいそがしく廻転した。
── どうしてくれよう?
西田がこちらに気がついてくれないか、と願うのだが、西田は沈思黙考で眼をつぶったまま置物のように動かないのだ。そこで大蔵は、将校斥候が敵に遭遇した時のような気分で、敏速にある行動を思いついて、部屋に取って返した。
大蔵は、ポケットから手帳を取り出すと、大急ぎで書きつけた。
「── アナタトノ約束ハダメ。相沢中佐ト前夜会ッタコトヲ喋ッテシマッタ」
大蔵は、またそっと部屋を出た。それでもまだあたりには人影はなかった。植込みの前で小石を拾って、書きつけた紙片の中にくるんだ。それから斥候が敵前を匍匐ほふく前進する要領で、植込みのの中を西田の窓下に近づき、腰をあげると、石つぶてを西田をめがけて投げ込んだ。つぶては西田の背後をかすめて、思いの外大きな音をたててどこかへぶつかった。大蔵は急いで身をひいて、木の蔭へかくれた。息を殺して状況を偵察すると、別棟の窓から、何の音だろう、といった様子で、人がのぞいた。だが、その人影は、大蔵には何も気づかない様子で、すぐ引込んだ。
西田は? と見ると、頭を廻してつぶての方向を見た風だった。と、ゆっくりと身をかがめた。頭が見えなくなった。拾ったな、と見ていると、頭がひょいと出たが、またもとの沈思黙考の姿勢でじっとしてる。
── はてな?
やきもきしていると、西田は少しづつ頭を下げはじめた。そして一定のところまで下げると、停まった。どうやら紙片に見入っている様子である。
── ははァ、見とるな。
西田は頭を上げた。と思うと、すぐ起ちあがって、窓の所へ近づいた。そしてちょっとの間立ちつくしていたが、スーッと廻れ右をして、姿が消えた。どうやら室外へ出た様子である。
── よしッ、便所だ。
便所へ入ると、案の定、西田が便壺に向って前を開けていた。大蔵も並んで、前ボタンをはずした。
「いつ、呼び出しが来たんです?」
大蔵が壁に向かったままたずねると、
「昨日、君が帰ると、じきに来た」
西田も壁の方を向いたままで答えた。
「ペテンを喰わされました」と大蔵は呻くように言った。「ところで、私の投げた紙つぶてを見ましたか」
「見た・・・ちょうど、その点で調べが渋滞していた所だ。君が認めたなら、ぼくも認めるよりほはあるまい」
「芦沢サンが、例の調子で馬鹿正直に喋っている様子なものだから・・・」
大蔵が弁解がましく言うと、
「どうもそうらしいね」
西田は腰をふった。
大蔵も、前ボタンをかけはじめた。
「じゃ・・・」
西田は便所を出て行った。
大蔵はゆっくりと手を洗って、西田が部屋へ入った頃を見計らって、便所から出た。
午後、二人は別々に釈放された。共犯や幇助の事実は、何もないことが判明したからであった。
大蔵は一たん家へ」帰ってから、西田家を訪れた。西田はまだ帰っていなかったが、三十分ほど細君を相手に話し込んでいると、帰って来た。
「大蔵君、君の紙つぶてで、オレは助かったよ」西田は大蔵の顔を見るなり、すぐそう言った。
「もう少し頑張っていたら、偽証罪でやられるところだったよ。法務官は、それでひっかけようとしてたんだ。それが最後のドタン場で白状して、帰された・・・お互いに、ま好かったよ」
殺された永田少将は、即日中将に進級した。── 新聞に発表された死亡時刻が午後五時となっていたが、それは進級の奏請などで手間取ったからだった。」
2022/01/09
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