~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (5-01)
陸軍は上を下への混乱に陥った。陸軍大臣は引責辞職すべきだ、との強硬説も出たが、林陸相は事態の混乱を収拾するために大臣に踏みとどまり、事件の後始末に奔走した。永田の補充としての軍務局長には人事局長今井清中将をもって行き、人事局長の後釜には参謀本部第三部長の後宮淳少将を据えた。
しかし、その間にも、まだ何が起こるかも知れないというデマが飛び、真崎一派の種々な宣伝や怪文書の類が横行した。情報によると、信州から東北にかけては殺された永田中将 ── 彼は殺されてから中将に進級した ── に対する同情が強く、九州、佐賀方面は相沢 ── というよりは教育総監から逐われた真崎大将に対する同情があって、事件を挟んで陸軍が地方的に対立する、というような空気がかもし出されているとのことだった。
「── 真崎一派は、林陸相遂出しをやってるんじゃないか」
そんな噂も立った。
また在郷軍人会を背景にして、先頃から「天皇機関説」問題でイキリ立っている国家主義者たちが、政友会の一部と組んで、陸相の責任問題を倒閣運動にまで持って行こうとしている気配も濃厚であった。
そうした空気の中で、八月二十六日、危ぶまれた師団長会議が開催された。席上、林陸相は粛軍に関して、次のような訓示を試みた。
「── 時局重大、内外多事にして、挙軍団結の強化と軍規の振作いよいよ切要なる秋、突如国軍の内部において前代未聞の不祥事を惹起し、おそれおおくも宸襟しんきんを悩まし奉りたるは、まことに恐懼きょうく措く能わざる所にして、その動機の如何にかかわらず、光輝ある皇軍の歴史にかんがみ、まことに痛恨の至りに堪えない。これもとより本職不徳の致すところ、その責任重大なるを感ずる次第である。
おもうに各長官の努力により、皇軍全体としてはこれがためいあさかの動揺なきを確信するも、時局の現状と事件の及ぼしたる衝動とにかんがみ、今後互に一層の戒心を加え、すみやかに軍規の粛正と団結の強化とを完成し、渾然一体上下相携えて時艱に邁進するの要さらに緊切なるものあるを認め、特にここに会同を催した次第である。
そもそも軍の生命とするところは、つねに一貫せる統帥の脈絡にもとづく鞏固きょうこなる団結にあり。これを以て国軍の根幹たる将校は、よく建軍の本義に透徹し、つねに天皇親率の軍隊たる全体観に立脚し、一将一兵だもつねにその進示は大御心による統帥の発露なる所以を明識し、挙措ことごとく一貫せる統属の系統にのつとらなければならない。将校はその言動を慎重にし、部外との接触に当たりては、軍の威信を確保すると共に、特に軍機の秘密にわたる事項を厳守するを要す。また流言蜚語に対しては、活眼を以ってこれが理非曲直を判別し、全軍正価のため相率いて厳にその流布を取締ることが必要である。将校団長たり部属の長たる者は、下を慈むの愛と熱とえお以って部下の指導に全幅の努力を払い、諄々じゅんじゅん説示して訓化これ努むるを要す。
然れども改悛の情認むべきものなりい場合には、各団体長は断乎たる措置を以ってこれをに臨まざるべからず。また部下はつねに上を敬うの念に燃え、進んでその訓化に浴するに努め、たとえ自己の所信を披瀝する場合に於いても、これがため軍紀を紊るが如きことなきを要する。
これを要するに現下時局の重大性にかんがみ、いよいよ皇軍意識に透徹し、上下相倚り相信じ、真に拳軍一致の実をあげ、、以って聖論の奉載実践に万違算なきを期することが肝要である」
だが、林陸相はこの粛軍に関する訓示をしてから、一週間後に、岡田首相の許に出かけて行って、弱音を吐いた。
「もうとても自分には続きません。いまこうやって、このままで『機関説」問題をうっちゃっていると、何が起こるかわかりません。現にもう若い将校が十人ぐらい団結し、何かやろうとしているらしい。それで「天皇機関説』について、もう少し何とかして、政府は処置がとれないものでしょうか」
つまり在郷軍人会の連中と政友会の一部が提携して騒ぎ立てている「天皇機関説」問題が、今は相沢事件にからまる陸軍の責任問題とからみあって倒閣運動にまですすみ、陸相はその板ばさみにあって身動きが取れなくなったというのである。
2022/01/13
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