~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (5-02)
それに対して岡田首相は、
「現在、やるだけのことはやっているんで。これ以上のことは何も出来ない。自分は絶対に『天皇機関説』では動かないつもりです」
sぷ頑固に突っぱねた。
林陸相は、一層立場に窮した格好になった。
「じっとこのまま何もしないで居れば、何かきっち起こります」林は色の八字鬚の端を指先でよじりながら、その赤銅色の小柄な顔をくもらせて、弱々しく呟いた。「そこで今日自分のつくすべき手は、ただ一つ残っている。それは自分が陸軍大臣を辞めることです・・・自分が辞めて、そうして新手にやらせて、それを自分は軍事参事官として援助するよりしようがない」
「しかしだね」と岡田はさえ切った。「自分も経験があるが、大臣に居てこそ何でも出来るが、軍事参事官となったら、そうやろうと思ってもなかなかできゃせん」
岡田は、そう言って林を引き止めた。
だが、林はしきりに辞職を主張し、
「あとは川島大将を以って来たい」どうやら後任まで物色している様子だった。「実は川島にも、内々に自分に代わってくれるように話したところ、川島は、もう時すでに遲い、このうえ何が起こるかわからん、t5お言ってましたが、しかしなお極力川島を説いてみるつもりです。明日中には何とか返事があると思いますから、ぜひそう願いたい」
翌日、林はふたたび首相官邸に岡田を訪れた。
「川島は、結局承諾してくれました」林はホッとした明るい面持ちで告げた。「極力、自分も川島を援けます・・・午後一時半頃、川島をここへよこしますから、どうか会ってみていただきたい」
川島義之大将は、かつて人事局長として公正な点を買われ、師団長、軍司令官を経て、軍事参議官になっていたのである。比較的派閥色の薄い人柄だけに、林の後任としては適当と思われた。しかし荒木大将と仲がよくないよいう噂もあり、陸軍がまた川島を出すのに機関説とか何とか難しい条件を出して、陸軍大臣後任難に陥らせ、結局政府を窮地に陥れるのではないかと ── との危惧もつきまとった。
だが、別な情報が伝わって来て、岡田の危惧はいくらか払拭された。数日前、林が荒木と会った時、荒木はしきりにこういうことを言ったと言うのである。
「── 陸軍では、ああいう事件が起きれば、伝統的に陸軍大臣は責任を取るということになっているんだから、とにあく君はこの際大臣を辞めて、新たな人にやらせ、自分たちと一緒に軍事参議官として、新大臣を援けてやろうじゃないか」
どうやら川島へ陸軍大臣のバトンを渡すことは、荒木との間に了解が出来ているらしい。荒木との間に了解があれば、ウルサイ青年将校どもの、陸相後任問題で騒ぎ立てることもなかろう・・・それが岡田首相の見込みであった。
翌九月五日、川島陸相の新任式が無事に取り行われた。
林が陸相を辞めたので、橋本次官も一緒に辞めて近衛師団長に納まった。陸軍次官の後任には、第十一師団長の古荘幹郎中将が坐り、古荘のあとには憲兵司令官の田代皖一郎中将が赴任した。そして田代のあとには、関東軍参謀長の岩佐緑郎中将が転補され、その岩佐の後釜として転補されたのが、第十二師団附としての待命の一歩手前にあった東条英機少将である。
東条は、いわば永田が非業の死を以て関東軍に押出してやったようなものだった。
2022/01/15
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