~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (6-03)
そんなところから、政府も第二次声明書を出さざるを得なくなって、二、三日費やして文案を作成した。
先に政府は国体の本義に関し所信を披露し、以って、国民の向う所を明にし、いよいよその精華を発揚せんことを期したり。そもそもわが国における統治権の主体が天皇にましますこよは我国体の本義にして、帝国臣民の不動の信念なり。帝国憲法の上輸じょうゆ並に条章の精神また玆に存するものと拝察す。然るにみだりに外国の事例学説を援いて我国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまざずして国家なりとし、天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我国体にもとり、その本義をあやまるの甚しきものにして、厳にこれを芟除せんじょせざるべからず、政教その他百般の事項すべて万邦無比なる我国体の本義を基とし、その神髄を顕揚けんようするを要す。政府は右の信念に基づき、ここに重ねて意のあるところを闡明せんめいし、以って国体観念をいよいよ明徴ならしめ、その実績を収むるため全幅の力を致さんことを期す。
この文案は、憲法学者の清水澄博士に相談して作ったものだった。というのは、陸軍は一部の倒閣運動者と気脈を通じているので、それらの連中の意見を声明の中に入れなければ承知しないだろう、という懸念があったので、慎重を期したのである。
そこで、文案を海軍に示すと、海軍はだいたい賛成であったが、陸軍では案の定難色を示した。学説にまでさかのぼって排撃すべしと言うのである。
たまたま陸軍大臣が、清水博士を官邸に呼んで、声明の文案について質問した。ところが博士から、
「国家法人説を否定するようなことになると、まるで国の行政は動かなくなるし、国際法なんかで国と国との条約など結ぶことが出来なくなる」
そうはっきりと聞かされたので、陸軍側はびっくりして、結局国家法人説を否定するような文句を挿入しないで、だいたい内閣がある程度まで妥協出来るような案に返してきたのだった。
そんないきさつから、陸軍部内の方は「第二次声明」でどうやら納まったが、事情を知らない在郷軍人と右翼の連中は、相変わらずしつこく攻め立てて来た。政友会では、実業家で右翼の連中と連絡のある久原房之助代議士などが、機関説排撃を唯一の責め道具として、しきりに倒閣を画策していた。それがため川島陸軍大臣の立場は、依然として微妙であった。
事実、川島陸相は、内閣にあっていつも情勢に押されてぐらついていた。川島は弱い、という評判が立ち、いつ辞めるかわからないという不安がつきまとった。
陸軍部内は、一応機関説排撃の鉾をおさめて平穏無事に見えたが、しかしいつまた蠢動しゅんどうしはじめるか分からない状態でもあった。軍の動きによって醸しだされる政治不安は、国内ばかりでなく、国外にもあった。
外では、満州事変の後始末として遮二無二満州国を成立させ、広田外務大臣の努力でソ連との間に北鉄譲渡協定の調印を終わっていたが、しかしそれはソ連との間の恒久的な平和を意味するものではなかった。いわば相互の国家勢力の均衡の上に咲いた一夜花にすぎない。満州国と長く国境を接している中国では、政情は不安で、一定の政治勢力がまだ形成されていなかった。南京政府の国民党内部では、親日家の汪精衛が、欧米派や親ソ派の共同戦線のまえに、敗退を余儀なくされていた。
満州にある関東軍は、中国のしの混沌たる政治不安を好機として、しきりに兵を山海関や河北方面へ出して威嚇し、華北の自治声明をさせようと企んでいた。
つまり「自治」に名を藉りて、揚子江以北の華北地方を、日本の軍事的勢力の圏内に置くことを急いでいたのである。
満州を、日、華、親善の上に育成する ── というプログラムは、満州事変当時の軍部の専断横行を認めると否とにかかわらず、今では日本の政治上層部の支配的な要望であった。
それゆえ政府は、南京政府と外交折衝の結果、三原則をうち立て、それを南京政府に無理やり承認させたのだった。
一、欧米に依存せず、日本に頼ること。
二、華北の状況に適応するように、即ち日、満、華の間をよく話合いのつくように実際に即して処置すること。
三、赤化運動に対する共同防衛。
そしてこの三原則による華北の「自治声明」は、その宣言が南京政府を刺戟しないような時機 ── 近く南京で開催される五全会議が終了した後 ── に出すことに、双方の了解が出来ていたのである。それらについては外務と海軍の意見は完全に一致していた。だが、陸軍の出先き機関が中央の命令に服するかどうかは、はなはだ疑問であった。
中央からは、「関内に兵を出すことは絶対にならん。停戦区域内にもやたらに兵を動かしてはいかん」とやかましく言っていたのにもかかわらず、陸軍は山海関に兵を出し、山東にも兵を出そうという出先の希望があるようだった。
殊に出先の軍は、停戦区域内ならばどんなことをしてもいい、と思っているらしい節があった。で、陸軍は山東出兵をほのめかし、海軍に「軍艦を出してくれ」としきりに言って来るが、海軍は中央での話合いにに従って、「今、軍艦を出す必要は認めない」とつっぱねた。
そんな風で、出先の華北でも「何が起こるか分からない」状態がくすぶっているのである。
2022/01/17
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