~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第四章 このうえ何が起こるかわからない
第四章 (7-01)
十二月中旬、大蔵栄一大尉は戸山学校の教官の任を解かれ、朝鮮羅南の原隊に帰任することになった。大蔵は西田を訪ねて、
「とうとうワシも中央から追払われることになりましたよ」
そう苦笑すると、西田は真面目な顔つきで受取って、
「まあ、朝鮮に居ようが、何処に居ようが、国家に対するわれわれの精神や考え方には変わりはない筈だから、お互いに連絡を取って、しっかりやろう」
それから西田は改まって、
「若い連中の、近頃の様子はどうかね?」
と聞いた。
西田は士官学校第三十四期 ── 騎兵少尉で病気で退官しているので、彼の眼から見れば、大蔵をはじめ現役の大、中尉はみな後輩であり、「若い連中」であった。
だが、近頃の西田はその「若い連中」から疎んぜられたり、煙たがられたりしていた。所詮は、革命ブローカーだというのである。そのため西田は、近頃は自分からも「若い連中」とは直接付き合わずに、退役仲間の村中や磯部、古株の大蔵大尉などを通じて、青年将校との脈絡を保っているにすぎなかった。
大蔵はそういう西田の立場を意識に置き、
「大体、相沢の精神を生かせ、ということで、公判闘争一本にまとまってきているようです」と言った。「歩一の栗原中尉なんかがガタガタして、さかんに飛び廻って、やろう。やろう、と言っているようですが、しかし栗原のやろう、やろうは、道で出合った時、お早う、というとうなもんです」
大蔵が笑うと、西田もつりこまれて、太い口髭をゆがめて笑った。
「僕は、若い連中が、満州へ行ったら何も出来ないから、行く前に事を起そう、という気持はよく分かるが・・・」二間は考え考え、言葉を続けた。「しかし軽々しく事を起したら、かえってブチ壊しになる。情勢の熟するまで、慎重に構えた方がいいと思う。国家改造なんてものは、若い連中が血気にはやって考えるほどないからね・・・だから、今は僕は相沢公判一本槍で行くべきだ、と思う。公判を有利にすることによって、情勢も熟するし、うまく行けばこちらの希望するような国家改造もある程度は実現できる、と思う」
西田の抱懐する公判闘争は、相沢事件がなぜ起こったかを、公判廷を通じて暴露し、十一月事件から十月事件、三月事件までさかのぼって、軍当局がこれまで臭いものに蓋式でやってきたことを公判廷にさらけ出し、関係将官級から元老、重臣、財界の元兇連中までを証人として呼出して、白黒を争う・・・そうすれば今まで耳目を蔽われていた国民も目覚め、何が悪かったかを知って、自然われわれに同情を持ち、われわれについて来る、と言うのである。
「そうですね、私も同感です」と大蔵は相槌を打った。
「だから私は、栗原たちによく言うんですが、満州へ行ったっていいじゃないか、どうせ、二年か三年すりゃまた交替になるだろうし、その間には情勢も変化するだろう・・・変化しないでも、情勢が悪化していたら、それからやたって遅くはない」
「その通りだ」と、西田は大きく肯いて、「栗原なんかの動きは、山口大尉に押さえさせるし、何なら僕が押さえてもいい・・・だから、君は朝鮮に行く途中で、大岸大尉や菅波大尉に会えたら、会って、よくその方針を話しておいてくれ」
山口市太郎大尉は、栗原安秀中尉と同じ歩一の中隊長で、皇道派の青年将校の中では先輩格である。士官学校を空前絶後という優秀な成績で卒業後、選ばれて東京帝大の理学部に依託学生として学んだという変わった経歴の持ち主で、そのうえ彼の妻は侍従武官長本庄繁大将の娘である。という点でも異色の人物であった。
また大岸頼好大尉と菅波三郎大尉は、共に皇道派陣営の先覚的理論家として、早くから定評があった。
そのため中央から危険人物視されて、大岸大尉は青森から和歌山の連隊へ、菅波大尉歩三から満州へ、反転して鹿児島へと、地方勤務を転々とさせられていたのだった。
殊に相沢三郎中佐に革新思想を吹き込んだのは青森時代の大岸で、相沢はふかく大岸に傾倒し、後輩であるにもかかわらず大岸に対しては「先生」という敬称を常に使っていたほどだった。
「大岸と菅波には、自分もぜひ会って行きたいと思っています」
大蔵は引き受けた。
そこで大蔵は、二人にあらかじめ電報で連絡して、朝鮮へ帰任する途中、大阪の宿で落ち合った。そして二人に中央の情勢と、相沢公判の闘争方針とを話して、朝鮮へ渡った。
大蔵の見解では、東京ではまだ「何事も起こらない」筈だった。
大蔵大尉が羅南の原隊へ帰着したのは、暮も押しつまった十二月二十五日だった。
2022/01/18
Next