~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第五章 岡田なんか、ぶった斬るんだ
第五章 (2-01)
猛吹雪であった。── 中央気象台の発表によると、午後九時にには積雪二八・五センチ。明治二十年の三一・〇センチに次ぐ四十九年ぶりの大雪だという。
夜に入るとともに、吹雪はますます激しさを加え、厳冬には珍しい雷鳴がとどろき、稲妻が無気味に積雪の上を走った。東京市内は、電車が停まり、やがて省線電車が普通となった。劇場や映画館の客は足をうばわれて、そのまま館内に籠城を余儀なくさせられた。
その吹雪の最中に、麻布三連隊の営門の近くにある古風な西洋料理店竜土軒の二階の広間では、十数名の青年将校連中が集まって、会合を開いていた。主として歩一と歩三の尉官級で、中に佐官級の者が一名、また近くの近歩三の将校が一名、参加していた。中央のテーブルに羽織袴の渋川善助、背広服姿の村中孝次、磯部浅一の三名がならんでいて、軍服の将校たちは、それを取り囲んで、渋川の説明に耳を傾けていた。説明は、その日の相沢公判の模様である。隊附の将校たちは、勤務の関係上傍聴に行けないので、渋川が代わりに公判係りとして傍聴し、それを青年将校たちに伝える役目を受け持っていたのである。そして「この会合は、もう数回開かれていた。竜土軒はフランス料理を主とした店で、明治時代には自然主義作家たちの集会所として有名であったが、今はさびれて出前を主とし、歩一や歩三の将校集会所の食事などをやっていた。店でも食事は出来るが、給仕女も居らず、料亭としては殺風景そのもので、それだけまた金のない青年将校の会合などには持って来いの場所であった。
説明役の渋川善助は、陸士三十九期 ── 村中孝次の二期下、磯部浅一の一期下であるが、士官学校は卒業していない。陸士予科では成績抜群で、恩賜賞をもらったほどの秀才であったが、早くから革命思想を持ち、卒業直前に思想問題で区隊長と衝突して、退校させられたのである。それ以来革新運動に挺身しているのだが、根が生真面目で、今もって挙措動作には軍人臭があり、血色のよい平べったい顔にスターリン張りの太い口髭を生やし、それが一種の凄味を利かせていた。話し方も、このごろ急に熱狂的になっていた。
渋川はメモを見ながら説明を続けた。
「・・・相沢さんの昭和維新の意義についての長い陳述が終わると、裁判長は、『真崎教育総監更迭に関して統帥権干犯というが、被告は被告は統帥権をどう考えているか』と訊問した。これに対して相沢さんは、『軍馬の権は、陛下みずからが執らせられる、この大権の一部を部下に委ねられているので、大御心を体し、陛下の御身代わりとなって、その職権を行うことを統帥権と考えている』と答えた・・・たしか、そうだったですね」
渋川は、傍らにひかえていた村中にたしかめた。
村中は腕組みの上で色白な顔を動かして、肯いた。
「その通り・・・」
「それから裁判長が、『犯行と軍規との関係をどう思うか』・・・それに対して相沢中佐は『予審の終わりにも言ったように、真に済まぬことである』・・・これは予審調書で・・・・」渋川は予審調書の写しをめくって読みあげた。「・・・『すでに申し述べましたように、私の今回の決行は、何人の指示も教唆も受けず、全くの一軍人として国を思い、軍を思う一念から出発したものでありまして、今となって何事も申し述べることはありません。法に問われ、軍法会議に附された以上、また甘んじてその裁きを受けるまでであります。ただしかし、永田閣下の御遺族に対しては、衷心よりあい済まぬと思って居ります』・・・つまりこれらを要約していったものです」
渋川は予審調書の写しを置いて、またメモを取りあげた。
「それに続いて、相沢中佐は、『・・・しかし一たん軍規を犯して大罪となるも、自分の精神がわかれば軍規は振作されると思って居ります』・・・と、これが終始一貫した相沢中佐の態度といいますか、精神といいますか、実に立派なものであります。私は傍聴して居りまして、天の啓示を聞いたような崇高な感に打たれました」
2022/01/23
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