~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第五章 岡田なんか、ぶった斬るんだ
第五章 (2-02)
渋川はそこでちょっと言葉をとめると、八字鬚を拳で左右に撫でて、一同を見渡した。
「相沢中佐は、『自分の精神がわかれば軍規は振作されると思う』と言って居りますが、それは相沢中佐の希望であって、今の軍部では相沢の精神は分からないし、また恐らく分かろうとはしないでしょう。そこで我々は相沢に続く者として、相沢精神を軍部内に確立するために、あくまで挺身すべきであって、今や我々の任務は重大であります。相沢中佐を見殺しにするな! これが、四回公判を傍聴した私の感想であります・・・第四回公判は大体その辺で終わって居ります。次の公判は六日に開かれますから、またここで御報告いたします・・・終り」
若い少、中尉たちは一斉に礼を述べて、ガタガタと椅子を動かして起ちあがった。家庭へ帰る者もあれば、営内の将校宿舎へ帰る者もある。戸外が大雪なので、みな帰りを急いだ。
だが、その乱れた靴音に包まれながら、歩三の安藤輝三大尉と、新井勲中尉は、じっと椅子に掛けたまま動かなかった。というのは、二人にはある魂胆があったのである。
「歩一がガタガタしているから、我々は歩三の態度を、一応表明しておく必要がありますぜ」
会合が始まる前に、新井がそう安藤に囁いたのである。── 新井は第十中隊の中隊代理、安藤は第六中隊の中隊長である。共に皇道派青年将校の指導的理論家である菅波大尉の薫陶くんとうを受けた急進分子であるが、どちらかというと自重論者であった。
つい昨日のことだった。── 新井が帰宅を急いで六本木の辻にさしかかると、先方から歩一の栗原安秀中尉が肩をそびやかして、何やら気負い込んだ格好で歩いて来るのにぶつかった。
栗原は陸士四十一期。新井よりは二年先輩である。退役陸軍大佐の息子で、顔は女のような優男だが、疳が強く、仲間の顔さえ見れば「やろう、やろう」と直接行動を慫慂する癖があった。そして自分で首相官邸襲撃の予行演習を秘かにやったり、また日曜日には、散歩のふりをして、連隊の近くにある内大臣邸の塀の高をステッキで計ったりする男だった。
栗原は、近づくと、いきなり浴びせた。
「おい、いよいよやらなけりゃ、いかんぞ! オレは、精力づけに、いま大和田で鰻を喰ってきたところだ」
いかにも栗原らしい言い方であった。新井は実直な顔に微笑を泳がせた。
「栗原さん、あまりガタガタしないようにしましょうや」
「なに?」
栗原は憤って、食いつきそうな眼附をしたが、新井は手を振ってさっさと別れた。街頭で議論するのも憚られたが、帰宅を急いでいたのでもあった。というのは、一月十日に初年兵が入隊して以来、新井は中隊長代理として多忙のため連日帰宅が遅れ勝ちだったので、この日はとくに早く帰って休養を取りたかったのである。
だが、一夜すぎてみると、前日の栗原の言動がいつもと違って、真剣味があり、いかにも自らをたのんでいるところがあるように思い出された。それに歩一の連中が栗原あたりを中心に、何か事を企んでいるらしいという噂も、チラホラ耳に入っていた。
── 栗原らの軽挙妄動に引き込まれちゃいかん。歩三は歩三で、自重論で行こう・・・歩三には、安藤と自分が動かなければ、若い連中は動かないだろう。七中隊の坂井中尉が、この頃急進的になっている様子だが、それとても安藤と二人で説得すれば、抑えられないことはない!
新井はそう思ったので、会合に出る前に、先任者の安藤にそう申し入れたのである。
「うん、そうしよう」
安藤は同感のしるしに、深く肯いた。── 安藤は下に弱く、上に強い、男性的な軍人気質で、一度約束したら梃でも動かない男である。
帰りを急ぐ歩一の将校達に混じって、渋川も何やら急いで帰りかけた。
「渋川さん」と新井が呼びとめた。「ちょっとお話しがあるんですが・・・」
すると渋川は立停まったが、すぐ、
「いや、わたしは失礼します。話があったら、どうぞ・・・」
眼顔で、まだ席に残っていた村中と磯部を指した。そして逃げるように階段を降りて行った。妙な素振りで、後味の悪いものが残った。
村中と磯部が席を起って来た。
「ちょっと話があるんだが・・・あっちで話そう」
村中はそう言うと、先に立って、小部屋へ入った。磯部、安藤、新井の三人が続いて入った。
2022/01/25
Next