~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第五章 岡田なんか、ぶった斬るんだ
第五章 (3-02)
だが村中はそんな弱味は見せなかった。
「川島が陸軍大臣だからダメだと言うんか」と彼は逆襲した。「そんなことがあるもんか。我々が飛び出したら、あとの陸軍はどうすると言うんだ。我々を敵とするのか。味方とするのか? 我々の迫力で押しさえすれば、軍は結局ついて来る。我々の迫力が問題なんだ。それに川島じゃダメだと言うが、そんなことはないさ。真崎や荒木は表面は都合がよさそうに見えるけれども、かえってよくない。あれらの大将は、あまりオレらのことを知り過ぎている。しっかりしているから、かえってダメなんだ。川島みたいな中途半端な人間の方がよっぽどいい。あいつはグニャグニャだから、引きずって行くには都合がいいんだ」
村中の態度は執拗で、食いついたら離れない態のものがあった。いつからそうなったのか。「十一月事件」で投獄され、免官になったのを、彼は腹の底から恨んでいるのかも知れない。そう言えばあの時彼が執筆してバラ撒いた「粛軍に関する意見書」は、辻大尉の陰謀暴露から、十月事件、三月事件にさかのぼっての陸軍内部統制派に対する陰謀の追及のしかたには、復讐魔を想わせるものがあった。
「陸軍省なんて、あんなものは 鎧袖一触 がいしゅういっしょく さ!」磯部がうそぶいた。「オレは、この眼でちゃんと見て、知ってるんだ。相沢中佐が永田を斬った朝、オレは偶然にも陸軍省の前を通りかかったんだが、あの時の陸軍省の上を下への周章狼狽ぶりは、全く見られたザマじゃない。あれが日本の陸軍を司るところか、とオレはあきれかえった・・・あんなものは、オレたちが起って、一押し押せば、他愛もなく崩れちまうさ!」
二人の 口吻 こうふん には、もうちゃんとした計画が出来ているんだ、と言わんばかりのものがあった。あるいは、歩一の栗原あたりとは、具体的な話が進んでいるのかも知れない。そう言えば栗原中尉は、渋川善助の相沢公判の報告がすむと、さっさと帰って行った。渋川も何やら急いで帰った。そして村中と磯部の二人だけが、用件有り気に残ったのである。これは臭い! 安藤の傍らに控えていた新井は、そう推察した。
安藤は、二人に左右から斬り込まれて、いささか受け太刀の形で、押し黙ってしまった。緊張した重苦しい空気が、室内を支配した。
階下で、時計が十時を報じた。大雪のために、あたりはしーんと静まり返っている。折々吹雪が、ザ、ザア・・・と窓を鳴らした。
黙っていてはいけない! 新井は胸を硬ばらせた。── 安藤を助けて、はっきりと歩三の態度を表明しなければならない。部外者の村中や磯部らの扇動に乗せられては危険だ!
「村中さん」と、新井は上体を左右に揺すぶって、口を切った。「非常手段というものは、無闇やたらに使うものでは「ありません。直接行動は、国家が立つか立たないか、滅亡するか否かの場合にのみ、はじめて是認されるべきです。国際情勢を思うと、我々は一日も安閑としてはいられませんが、それは積極的繁栄・・・少なくとも現状維持を考える場合で、それを対象としての直接行動は、これは全然見地が違います」
「現状でいいと言うのか」村中がみなまで聞かないで、さえ切った。「現状が悪いから、やらにゃいかんのだ」
「現状でいいとは申しません。だが、村中さん、少し黙って私の言うことを聞いて下さい」
村中は仏頂面のまま、黙って肯いた。
「わたくしにも現状は不満です」新井は続けた。「しかし、現状が悪いと言っても、ただそれだけで直接行動に訴えたんでは、いつの世でも、国家の秩序は成り立ちません。今の現状では、なるほど一般国民は、日常の生活不安に苦しんでいます。しかし全般的に観察すれば、満州国の建設は進み、メイド・イン・ジャパンの商品は、関税障壁を打ち破って世界の国々に浸透して居ります・・・この国家の現状を目して、滅亡の危機にありとは、わたくしには絶対に思われません」
すると磯部がムカムカした様子で、打ち返して来た。
「新井君、それは特権階級のことだ。いま繁栄しているのは、彼等ばかりで、国民は塗炭とたんの苦しみをなめているんだ」
「そりゃ受けている利益は特権階級が多いでしょう。一般労働者群 ── 特に、我々が一番懸念する農民は、苦しいことは苦しい。現に私の中隊でも、今度入営した初年兵の家庭調査をしていますが、姉や妹が女郎屋や芸者屋に身売りされている兵が、二人や三人はいます。しかし一般的に言って、昭和六、七年 ── 饅頭事変前後に比べれば、その苦しみはいくらか緩和されています」
「そんなことはない。かえって苦しいんだ!」
磯部が断定的に言った
「いいえ、数字がこれを証明します」
「数字なんか、あてにならない、苦しいのは苦しいんだ。現に俺の田舎では・・・・」
「一部の実例では議論になりません。大局的見地から見て下さい」
今度は新井がさえ切った。
彼の脳裏には、さきごろ坂井中尉と二人が北京駐屯軍に派遣されていた際、演習や行軍の途次に見かけた中国の農民の姿が、急がしくチラついた。日本の農民も貧しいが、中国の農民はそれ以上であった。日本の農家はいくら貧しいと言っても、小さな戸棚の一つぐらいは必ずある。だが中国の農家には簡単な家具一つないのが、多かった。食物も、米やメリケン粉ではない、馬鈴薯や粟の粥が主食である。日本の農家の麦飯などは上々である。日本の農村で眼につくのは学校施設だが、中国では寺小屋式ものさえ稀であった。無智で、不潔で、地面の虱のような中国の農民に比べて、日本の農民は貧しいうちにもまだ文化の匂いがある。まだ人間らしい生活がある。
「日本の農民も苦しいでしょうが・・・」と新井が盛り上がって来る思いに圧倒されながら、急いで言った、「中国の農民は、もっと苦しいのです。非常手段を取るまえには、まだ日本の農民も我慢しなけりゃなりません」
2022/01/28
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