~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第五章 岡田なんか、ぶった斬るんだ
第五章 (3-03)
すると、それまで黙っていた村中が、色白な顔をあげて、突然反問した。
「それじゃ新井君は、いつやると言うんだ? 筵旗むしろばたを押し立てた百姓一揆が出たり、飢え死ぬ者が出て、餓莩がんひょう山に満つとなればいいのか・・・警察の発達した今日、そんな百姓一揆など起こるもんか」
村中は筆も立つが、弁も立つ。最後の言葉は罵言に近いものとなった。それに村中らは、免官になってから、始終警察の特高につけ狙われているので、それに対する嫌悪が一緒くたに混じっていたのだ。
「いいえ、違います」新井はやり返した。「いくら警察が発達しても、食えなくなれば、生か死かの問題です。あの階級差のやかましい斬り捨てごめんんの世の中でも、百姓一揆は起こっています。警察がどうのこうのと言っても、それは問題になりません」
頬杖をついて、じっと両者の言い分に耳を傾けて考え込んでいた安藤が、その時不意に顔をあげて、言った。
「そりゃ見解の相違だ。いくら議論しても駄目だ」
安藤は議論のもつれを警戒したのである。両者の間に入って苦しんでいるのが、眼鏡の奥の瞳にひそんでいた。
「それにしても、村中さんや磯部さんには部下がありません。失礼ですけれど、今では一介の地方人です」新井はあくまで自説を固執した。「わたくし共が、一個人として、血盟団や五・一五のように動くのでしたら、わたくしも反対はいたしません。軍服を脱いでやるというなら、一緒になってやりもしましょう。それは個人が犠牲になればよいのですから・・・しかし軍隊を使用するのは、事が違います。我々が飛び出すには、戦闘要綱の独断専行に合するか否かを、慎重に検討する必要があります。戦闘要綱には、つねに上官の意図を明察し、大局を判断する・・・とありますが、この際の上官は陛下です。軍隊を使用して直接行動に出ることは、陛下が御自ら元老重臣を斬ろうと考えて居られる場合、その時だけに許されるべきです。今の陛下が、果たしてそれを御考えになって居られるか、どうか、わたくしにはそうとは絶対に思えません。わたくしは絶対に軍隊を犠牲には出来ません」
「なに、陛下だって御不満さ」
村中は短く言った。
「そりゃ御不満はお持ちでしょう。しかし御不満ということと、これを斬るということは違います」
「では、新井君は、同志を裏切ろうというのか」
磯部が斬り込んで来た。
同志を裏切る ── 何と言うイヤな言葉だろう?
新井の胸には、不快な憤りがムカムカと駈けのぼった。
「何を称して裏切りというんです? わたしはあなた方の言うことを必ずききますと、いつ約束したことがありますか。わたしばかりではない、安藤さんでも、坂井でも、そんな約束は誰もしていない筈です。それなら何故磯部さんは、わたしたちのいうことをきかないんです・・・国を憂えることは、同じです! 私も現状には不満です。しかし問題は、現在直接行動をやるか、やらないか、それを論じているんじゃありませんか」
あなた方の指図など受ける必要はない ── と、そんな硬い表情が、新井の角張った顔一杯にみなぎっていた。
安藤がまた仲に入った。
「まあ、今晩は遅いから、これで止めにしよう」
それから安藤は、磯部の方を向いて、静かに言った。
「でも、我々の第一線と思っていた新井さんがこんなに反対するんだから、やらない方がいいと思う」
四人の胸の中は、お互いまだスッキリしなかった。だが、もう十一時近かったので、いいたいものを残して、一同は竜土軒を出た。
外は白一色に埋まっていた。相当深く積もっているが、雪はまだ止みそうもなかった。
電車通りで、四人の影は二つに別れた。村中と磯部は青山一丁目の方へ、安藤と新井は六本木の方へ・・・
「新井」安藤はしばらく黙って歩いた後に言った。「今夜のことは、誰にも言うな。どこまでも歩三は歩三で行こう。しかし若い者には、あまりブレーキはかけるなよ。やるやらぬは別として、いつでも死ぬだけの覚悟は必要だから・・・いま、連隊では坂井が少しガタガタしているが、あれはオレからよく言っておく。我々がやらなけりゃ、坂井もやらんよ」
雪をかぶった街灯の下で、安藤は微かな笑いをもらした。
二人は六本木の四ッ辻で別れた。
2022/01/28
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