~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第五章 岡田なんか、ぶった斬るんだ
第五章 (4-03)
山下の応接間は、それらの将校たちで一杯になった。
「やあ、お揃いで、何だね?」
山下は和服の寛いだ姿で、応接間に入って来た。── 軍服では、肩章の手前、話が窮屈になるだろう、と山下はそういう細かい心遣いをする男でもあった。
「今夜は、一つ、閣下の縦横談を伺いに参りました」
安藤大尉が、先任者として口火を切った。
そtれに安藤は、血盟団事件の際、内大臣牧野伸顕を暗殺することになっていた東大生の四元義隆を、当時連隊長だった山下の指金で、将校寄宿舎の自分の居室に数日間かくまったことなどもあって、山下とは特別親しい間柄でもあったのだ。
「縦横論か・・・ハッハッ!」山下は肥満した身体をゆすぶって、嗄れ声を出した。「特別これという話もないがね・・・二、三日まえ、相沢中佐のところへ、面会に行って来たよ」
「相沢駐車、元気でしたか」
「元気だ。奴ももう悟り済まして、参禅を地で行っているような気持でいるようだ。オレは別に何も言うことはないから、禅も武士道も帰するところは同じだから、武士道を守らにゃいかん、と話した。相沢は喜んでね・・・あの兇行の日に、廊下でオレから『静かにせにゃいかん』と言われたことを、しきりに感謝していた。オレの声が耳に入ったんで、自分は落着きを取り戻し、神気に打たれたような爽やかな気分になりました、と何度も繰返してたよ」
自慢話である。だが、青年将校たちは、生真面目な顔つきで拝聴した。
「そういうところが、いかにも相沢でね・・・オレが帰ろうとしたら、閣下、と呼びとめてね・・・国家非常の際ですから、どうか閣下も御国のために確りやって下さい! オレは気合をかけられて、帰って来た」
和やかな笑いが、まき起こった。
山下は若い者らの笑いを、気持ちよさそうに見やっていたが、やがて目をすぼめるようにして、左右を見廻し、
「あれだったね・・・大きな声がしたそうだね」
そう前置きしてから、軍刀のつかを両手で握って刺す真似をして、
「相沢がやった時、ギャーッ! と実に大きな悲鳴をあげたそうだよ」
だが、今度は誰も笑わなかった。ただ眼を見張っているだけだった。
山下は薄笑いを、ぎこちなく引込めた。
「あの時の・・・ですね」と誰かが伺いをたてた。「永田中将の死亡時刻が、陸軍省発表と、軍法会議のとで違うのは、どういう訳でありますか」
「あれか、あれは何でもない。中将への進級やその他の事務事務手続き上の都合で・・・あれは、別に何でもないんだ」
山下は事もなげに言って退けた。
話が、「十一月事件」にふれた。
「あの事件では、永田は小細工をやりすぎたよ」と山下は言った。「大体、おかしいじゃないか。士官候補生を逮捕するのに、生徒隊長や学校長は何も知らないで、軍務局長と陸軍次官だけでやっておる・・・あれはいかん。小細工はいかんよ、大鉈おおなたで行かにゃ!」
やっぱりそうか、村中や磯部がやっきになって言う通り、やはり永田の策謀で、辻大尉は永田に踊らされてやったのだな ── と、そんな表情が、若い連中の顔に一斉に浮かんだ。
話は次第に現在の時局問題にふれてきた。新井は、山下が調査部長として、どんな認識と抱負を持っているかを知ろうとして、熱心に耳を傾けた。だが、山下の話はのらりくらりとして、何もかも中心を外れ、掴みどころがなかった。現状が不満なのか、満足であるのかも分からない。現状に不満らしい口吻ではあるが、それならどういう手を打つべきか・・・山下には、何ら具体的な方策はないらしかった。
「岡田総理はどうですか」と、安藤が質問した。
すると山下は、大きな二重瞼の眼を、ピカリと光らせて、
「岡田なんか、ぶった斬るんだ・・・!」
山下の声には力が籠っていた。
帰途、新井は安藤と一緒になった。
「安藤さん」新井は、山下にお対する疑問をぶちまけた。「山下閣下は、岡田はぶった斬るんだ・・・と言いましたね?」
「うん、言った」
「あれは、一体どういう意味なんですか」
「どういう意味か・・・オレにもよく分からん」
「ほんとに、ぶった斬れ、と言うんでしょうか」
「さあ?」
安藤は首をひねって、あとは重苦しく押し黙った。
2022/02/01
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