~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第五章 岡田なんか、ぶった斬るんだ
第五章 (5-01)
歩一の山口大尉は、第七中隊の中隊長室で、ひとりぼんやりタバコをふかしていた。するとそこへ、最近ガタガタ飛び廻っているという噂の栗原中尉が、その噂通りの気負い立った姿をひょっこりと現した。
栗原は同じ連隊内の機関銃隊附なので、昼食などには将校集会所で、毎日顔を合せるのだが、最近は伊香保付近での現地戦術演習やら勤務多忙やらで、二人はロクに話をかわす機会もなかった。それも四、五日のことなのだが、山口には栗原の行動が気になっていただけに、一ヶ月も会わなかったような気がした。
「栗原か、ずいぶん久し振りだな」
自然、言葉が皮肉な調子になった。
だが、栗原はそれに取り合わないで、笑いながらいきなり高飛車にあびせた。
「山口さん、もう留めやせんでしょうね」
直接行動である。そら、来た ── と山口は胸にガクンと来るものがあったが、さあらぬ態に外して、
「ああ、もう仕方がないよ」
全くもう留めようがない、といった格好で、肯き返した。
栗原のまだ坊ちゃん然とした血色のよい顔には、子供がいたずらを許された時のような喜ばし気な表情がうかんだ。
栗原はすぐ生真面目な顔つきにもどって、一人ぎめに呟いた。
「それでも、言うと留められそうだから、あなたにも西田さんにも言いません・・・ただやるだけのことです!」
栗原の「やる、やる」は、口癖のようなもので、いつも掛声だけに終わっていたのだが、それがどういやら最近は、止むに止まれぬ気持に自分を駆り立て、もはや退ッ引ならない状態になっている様子だった。
歩一における。山口大尉は、早くからの革新思想の持ち主とした、また連隊では最古参大尉 ── 陸士三十三期、栗原中尉より八年先輩 ── として、急進青年将校の先頭にありながらいつも留め役に廻るという、奇妙な立場に立たされていたのだ。それは一見矛盾のように見えるが、決して矛盾ではなかった。彼は革新思想の持ち主であるが、同時に軍隊を使用しての直接行動は無闇やたらに行うべきではないという確固たる意見を持っていたからである。それにまた彼は、技術将校として、陸軍技術部員でありながら実践部隊の中隊長を勤めているという変則的な立場と、侍従武官長本庄繁大将の娘婿であるという個人的な事情とが、一層彼を特殊な立場に置いていた。事実、彼は自己の個人的事情を利用して、青年将校の希望するところを上層部に反映させるべく、機会あるごとに岳父本庄大将に意見を具申して来たのだった。しかし、どうやらそんな生温かい迂遠な方法では、もはや血気にはやる若い連中の押さえが利かなくなったようである。
十二月の柳川中将の台湾司令官転出が、若い連中 ── なかんずく栗原らを、相沢公判を乗り越えて直接行動へと駆り立てる動機となったのだった。
柳川中将が赴任する前夜、山口は中将宅を訪れた。
すると柳川は沈痛な面持ちで語った。
「吾輩が、相沢の代わりに台湾へ行こうとは思わなかった・・・・君にはいろいろ苦労させたが、もう当分会えんね。若い連中も、これからずいぶん口惜しい思いをせにゃなるまいが、君は全力を挙げて彼らの軽挙妄動を押さえてくれ。吾輩の留守中は、決して動かしてはいけんぞ。天の時も悪い。地の利もまた悪い。動いたら必ず取り返しのつかんことになる。人類の不幸 ── 戦争が必ず到来する。秦閣下もやめさせられたし、東京憲兵隊長の持永も転じたしなア・・・君も苦労が少なくあるまいが、兎に角今は動かんことだ。期待を持たせろ、必ず柳川が解決するから」
山口は、その柳川の意を体して、若い連中の押え役に廻った。それに「今 動いたら必ず取り返しのつかんことになる。人類の不幸 ── 戦争が必ず到来する」という意見には、山口は全く同感だったのである。── それについて、山口には苦い思い出がある。
2022/02/02
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