~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (1-01)
寒気は、相変わらずきびしかった。松本市では氷点下二十度という、関東では珍しい最低気温の新記録を出現した。
その中で相沢公判は回を遂うて進行していったが、その第五回の事実審理がすんだ翌日、民間側からのただ一人の弁護人として、また法曹界の長老であり、軍法会議の創設者としてその弁護ぶりが世間の注目をあびていた鵜沢聡明博士は、突然、明治四十一年以来党員としてきた政友会を脱党し、東京会館での記者会見で、その声明書を発表した。
陸軍省における相沢中佐事件は、皇軍未曾有の不祥事件であります。本事件を単に殺人暴行という角度から見るのは皮相の讒りをまぬかれません。日本国民の使命に忠実に、殊に軍教育をうけた者のここに到着した事件でありまして、遠く建国以来の歴史に関連を有する問題と言わなければなりません。
従って統帥の本義をはじめとして、政治、経済、民族の発展に関する根本問題にも触れるものがありまして、実にその深刻にして真摯しんしなること、裁判史上空前の重大事件と申すべきであります。裁判の進行と共に各方面の関係を明確にするためには公明正大なることを要し、いかなる顕官重臣といえども証人たらざるを得ない場合があるかとも思われます。政府及び軍部には識度しきどの高い方々が綺羅星きらぼしの如くでありますから、この事件の重大性を正視されたならば、最善の帰結を見出すところがあらねばならぬと信ずるのであります。
私としては、かかる場合に一党一派に籍を置き、多少なりとも党派的好尚こうしょうに影響せられてはならぬと痛感し、政友会入党三十年の微力を致した過去を一?し、ここに政友会を離脱することに相成った次第であります。けだし事件の真相を審究し、単に弁護人たるの責務の外に、国家的見地からかかる問題の最善の解決を希求する念願が熱烈となり、仁愛を基本とする刑政の本義を闡明せんめいせんとする微衷は、私をしてこの決意に至らしめたのであります。
   昭和十一年二月七日
                 貴族院議員法学博士 鵜 沢 聡 明
この声明文を朗読した後、小柄な博士は、新聞記者に取り囲まれながら、ゆっくりした口調で語った。
「元来、この事件は、ありきたりの殺傷事件と異なって、犯行そのものには一点の争いはなく、この点に関する限りは、もはや何の証拠、証人申請も要しない状態でありますが、相沢中佐の犯行の原因、動機の点については、犯行当時の陸軍省発表以来問題を惹起じゃっきし、陸軍当局は中佐の犯行を『巷説を妄信』したる結果だとしております。検察官もまたその公訴事実において、この陸軍省発表を裏書きしておるのでありますが、弁護人側においては、果たして相沢中佐が『巷説』を信じたものか、それとも間違いない事実を認識したものであるかの点については、ほとんど満足な予審調べはなく、このままでは重大な原因動機の大部分が、ついに疑問のまま判決の言渡しとなるような状態の可能性もあるので、法廷においてその真相を究明するために、証拠証人の申請をしなければならぬと考えて居ります」
博士は、そう淡々と心境を述べたのだった。
だが、、鉛筆を走らせる新聞記者たちは、この博士の淡々とした言葉から、差し迫った「重大な意味」を掬みとった。── 近く大官連中が続々と法廷に証人として喚問されるに違いない。その公判闘争のために、博士は三十年来の党籍を投げうったのだ、と。そこでこの事件は、その日の夕刊に、センセーショナルな見出しで大きく報道された。
だが、政友会を離脱した博士の心境は、新聞がセンセーショナルに取扱ったほど、気負いたものではなかった。むしろ弁護人として、また軍法会議創設の生みの親としての学者的な気持から出発したものだった。彼の所属する政友会は、岡田内閣発足以来、反対党として事毎に倒閣運動に憂き身をやつしてきた。したがって、その政友会に党籍を持っていることは、世間からとかくの色眼鏡で見られる危険があり、それが今後行われるであろう証人申請などの裁判の邪魔になる、と考えられたからだ。つまり新聞の報道と博士に心境とは、ポイントの置き方が違っていたのである。
2022/02/08
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