~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (2-01)
昼食時だった。──
新井が食事をすませて将校集会所を出ようとすると、
「新井中尉・・・」
後ろから呼びとめられた。
振り向くと、連隊附の天野中佐だった。中佐はチョビ鬚の顔に、苦り切った表情をただよわせていた。
二人は並んで、営庭の方に歩いた。
「君は、君の中隊のある少尉が・・・」と天野中佐は、わざと名前を伏せることに特別な意味を持たせて言った。「女に惚れて、結婚したがっているのを知ってるか」
「詳しいことは知りませんが、そういう噂は聞いて居ります」
新井は率直に答えた。 る少尉と言うのは、昨年任官したばかりの鈴木少尉である。彼が結婚を申し込んだという噂の女性は、富裕な弁理士を父に持つ、明るい性格の令嬢だということだった。
最近将校寄宿舎の独身将校たちの間で評判になっている噂によると、その女性は、はじめは鈴木と同期の清原少尉がさきごろ結婚問題で鹿児島に既成した際に、列車の中で知り合ったもので、清原は意気投合したのだが、彼には親の定めた婚約者があるので、鈴木に相手を紹介した。すると鈴木はたちまちその女性と意気投合し、結婚話にまで進展したのだという。
「それなら言うが・・・・」と天野中佐はますます苦り切った顔で、「新品少尉やそこらで、結婚など考えていては問題にならんよ。清原の結婚は、家庭の事情でやむを得ないが、それに釣られて、若い者がこんな風では・・・相手の女性も、相当なフラッパーじゃないか。いわば清原のお古だよ。君からもよく指導してやってくれ」
清原のお古 ── 新井はその下品な言葉づかいに、いささかムッとした。お古であるかないか、詳しい事情も聴かず1に、噂だけで相手の女性の品格を疑ってかかるのは間違いだ。殊に鈴木は昨年任官したばかりの所謂新品少尉で、軍人としては少し元気がなさすぎるくらいおとなしい男で、将校寄宿舎に居住し、今年はじめて手掛ける初年兵教育に専念している折柄だったので、後輩をかばう気持からも、新井は余計腹が立った。
「わかりました」と新井は自然固い口調になって言った。
「いま鈴木少尉は、初年兵教育で一所懸命です。初年兵教育が終われば、師団をあげて満州に行くんです。鈴木少尉の場合、今はまだ指揮尚早と思いますが、二年後に凱旋して来て、二人がなお真剣に結婚を考えていたら、その時は、わたくしとしては結婚させたいと思います」
「そりゃ、その場合は構わんよ。最近坂井中尉が結婚した。清原も結婚する・・・若い者が、こう結婚熱に浮かされていては、連隊としてあまり芳しい事ではない・・・鈴木少尉の指導は、よろしく君に頼んだよ」
二人は営庭の真ん中で、左右に別れた。
新井は中隊長室に帰ったが、気持がむしゃくしゃして落着かなかった。結婚熱に浮かされている者として天野中佐が口にした坂井、清原、鈴木の三人は、共に新井の後輩であり、革新思想の持ち主であった。坂井中尉は、最近歩一の栗原中尉らの働きかけで急進に傾いている様子が見えるが、清原や鈴木は革新思想を抱いていると言っても、なだ西も東もわからない子供っぽさがあって、それが新井の眼には可愛らしく映っていたのである。そして二人とも相沢公判には深い関心を寄せて、竜土軒の会合にはずっと出席していた。
2022/02/09
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