~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (3-01)
歩一の栗原中尉が中心となって立てたクーデターの計画は、二月に入って、日を経るにしたがって次第に実効性を帯びて来た。栗原と絶えず連絡して計画を練ったのは磯部浅一であった。
磯部は、最初は少数の同志で岡田首相と斎藤内府を襲撃して、政変を起せば足りる程度にしか考えていなかった。だが、歩一と歩三が中心として同志糾合に忙しく飛び廻っていた栗原のもたらした情報によると、相当部隊が動かせる、という。
栗原は、その情報から割出して、第一案を出した。
「岡田、斎藤、鈴木貫太郎・・・この三目標で、どうでしょう。この三目標なら、確実に目的を達することが出来そうです」
「牧野はやらんのか」
磯部は、部隊が動かせると聞いて、急に気が大きくなったのである。
「牧野はいいでしょう。あれは、今は内府を退いていて、政治的な力を振るうわけには行かんのだから、必要ない、と思いますね」
「いや、牧野と西園寺を倒さなければ、我々の革命にならん」磯部は主張した。「あの二人を生かしておいたんでは、維新のイの字にもならん。政変になる可能性があるし、それが我々に不利な政変にならんとも限らん。大きくやるなら、徹底的に殺してしまわないとダメだ。特に牧野と西園寺は絶対に討たなければダメだ」
「そうかな。それじゃ、やりましょう・・・しかし西園寺は興津に居るが、牧野はどこに居ますか」
そう聞かれると、磯部は困った。つい先頃までは、内府を勤めたので、麻布の内府官邸に住んでいた筈だが、今は斎藤実に内府を譲って退官したのだから、内府官邸にはもう居ない事だけは確かである。
「さあ、牧野はどこに住んでいるか・・・オレも知らんね」
二人はちょっとの間黙って顔を見合わせていたが、同時にプッと噴き出した。
「磯部さん、あんた、牧野をやれやれと言いながら、肝心の牧野の住居も知らんじゃないですか」
「何のこったい、迂闊千万だ」
磯部は正直に頭を掻いた。
それから二人は、あわてて、牧野の居所を調べた。すると、まだ内府官邸に居るともいい、また鎌倉の別荘に居るとも言い、どちらか判然としなかった。そこで栗原は日曜日を利用して、カムフラージュに恋女房の玉枝を連れて二度も鎌倉へ行き、牧野別荘の要図を作製して来た。しかし鎌倉の別荘には、牧野は居ない様子であった。
磯部が牧野を遊撃目標に加えることを主張したのには、もう一つ別の理由があった。所沢の飛行学校に学生としている同志の河野寿大尉が、しきりに「牧野をやる」と言い、「一人でも決行する」と、語気鋭く話したことが頭にあったからだった。
その時、河野は磯部に向って、しみじみとこう語ったのだ。
「磯部さん、私は小学生の時分、陛下の行幸をお迎えしたことがあるんですが、その時、父からこんなことを言われました。『今日、陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、もし陛下の鹵簿ろぼを乱す悪者が、お前たちのそばから飛び出したらどうするか』・・・私も兄のつかさも、まだ小さくて答えることが出来なかったんです。すると父が厳然として、『飛びついて行って殺せ!』と教えました。私は理屈は知りません。が、しいて理屈を言えば、父が子供の私に教えてくれた『悪者に飛びついて行って、殺せ』という、らったそれ一つがあるだけです・・・牧野だけは、私にやらせてください。牧野を殺すことは、私の父の命令のようなものですから」
河野が、なぜ牧野一人を選んだのか、その理由は不明だった ── 青年将校の単純さで、牧野を天皇側近の悪者と決めてかかっている節もあった ── が、この不断はおとなしすぎるぐらいおとなしい坊ちゃん然とした男が、それほど透徹した心境でいるのか、と磯部は襟を正したい思いがしたのである。
河野大尉は、昨年末、満州から所沢飛行学校の操縦科学生として帰還し、いまだ独身で、学校付近に下宿住居をしている。
2022/02/10
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