~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (3-02)
栗原と磯部は、牧野の偵察に専念したが、どうもその所在の確証が掴めなかった。警察で聞けばすぐ分かるだろうが、そんな迂闊な真似は出来ないし、それかといって知名の士で、牧野と近い人々に知合いもない。新聞記者にでも聞いたらと思ったが、それも適当な人が見出せなかった。ホトホト困っていると、、二月はじめの新聞の人事消息爛に、「牧野伯、湯河原の光風荘に入る、午後一時三十分小田原通過・・・云々」の記事が出ていた。
「しめた!」
磯部は早速 所沢の飛行学校に河野を訪ねて、その消息をもたらした。
河野はニコリと笑って、
「どうも有難う。至急に偵察して、見当り次第やります」と確言した。
磯部は所沢から帰って、そのことを栗原中尉に伝えた。
すると栗原は色をなして、
「それは困る」と言った。「今河野大尉に一人でやられたら、部隊が困ります。いま折角部隊の方にも働きかけているのに、同時決行でないと、逆に我々が各個攻撃を受けます・・・だから、河野大尉には、一時隠忍してもらいたいんです」
もっともな言い分であった。いつも「やる、やる」と、一人で飛び出すような言動をしていた若僧の栗原だが、いよいよクーデター決行の首謀者となり、責任者ともなれば、やはりこの言があるのだ。
「そうか。オレの思慮が足りなかった!」
磯部はシャッポを脱いだ。
たしかに磯部は状況判断に思慮を欠いていたが、しかし磯部は磯部として、ひとり心中深く期しるところがあったのだ。彼もまた「一人でもやる」という決心を持っていたのである。
その決心は、相沢事件が起こった際、陸軍省の上を下への狼狽ぶりを目撃した時から、心に根ざしたものだった。
「陸軍省なんて、あんなものは、我々が起てば鎧袖一触だ!」
それが磯部流の短見であったにしろ、ともかく彼は、それ以来、決心の臍を決めたのだ。
── よしッ、一人ででもやろう!
そこで彼は、事を起こした場合、陸軍の首脳部がどういう処置態度に出るだろうかを、誰にも図らずに、単独で調べて廻った。それぞれ適当な紹介者を通じて、川島、真崎、古荘、山下の将軍らを歴訪した。
磯部はどこでも直截に言った。
「若い者らの間に、このままでは済まされないという空気があります。それで何事かが起こった場合、閣下はどういう処置をとられますか・・・またそのことについて、閣下はどうお考えになりますか」
磯部は最初真崎大将と川島大将に会ったが、いずれも大した返事は聞き出せなかった。ただ一様に、そうした空気に対して困っているらしいことだけは、確かだった。何事か起らなければ片付かぬ、起った方が早く片付く ── そんな他力本願的な考えでいるようにも思われた。
真崎は、憤慨に堪えないといった面持ちで言った。
「このままでおいたら、血を見るだろう・・・しかし、オレがそれを言うと、真崎が煽動していると言うに決まっている。何しろオレの周囲にはロシアのスパイがついているんでな」
ロシアのスパイ ── しかしそれは具体的なものではなく、陸軍の主流派の動きに対する抽象的な言い方だった。
山下奉文少将は、会うといきなり浴びせかけた。
「君らは、国家改造々々というが、一体案があるのか。案があるなら持って来い、一つ垢抜けのした案を見せてみろ」
「案よりも、近く何事か起った時は、どうするか・・・そいう問題の方が先です」
磯部はやり返した。
すると山下は大きく肯いて、
「ああ、何か起こった方が、そりゃ早いよ」
胴間声でそううそぶいた。
2022/02/11
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