~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (3-03)
川島陸相とは三時間余り会談した。
磯部は直截に言った。
「渡辺教育総監に対する世間の疑惑は、非常に大きいです。特に新年早々テキ屋に狙われた事実さえあって、青年将校の憤激は一ト通りではありません。このままにして置くと、必ず血を見ます。しかも教育総監系統の将校が多数して渡辺大将を斬るような事態が必ず起ります。青年将校も今度やれば、五・一五事件くらいの小さなことことではなくて、大仕掛けなことをやると思います・・・一体、事件が起きた時は、軍首脳部は、どういう処置を取られますか」
川島は黙って聞いていたが、磯部の言葉が終わると、とぼけたような表情で、
「渡辺大将は自分でやめると言ったらいい・・・君らはそれを奨めたらいいだろう」
と、答えた。
「地方では、将校団の青年将校や教導隊に区隊長などが、誠心を披露して教育総監の辞職を勧告していますが、そのためにかえってそれらの純粋な将校たちが弾圧されています・・・それももう行き着くところへ行ったのですから、次には必ず何事か起りますよ」
磯部がそう一本釘を刺した。
すると陸軍大臣は、千葉歩兵学校、豊橋教導学校、それから九州、朝鮮、東北等の各地の将校から教育総監に対する辞職勧告が来ていることや、またそれを弾圧している状態は、大体承知していて、時分でもそれたにつおてボツボツ語った。
最後に、川島は呟いた。
「どうも仕方がないなア」
溜息でも洩らすような呟き方だたt。
磯部はその呟きを、何事か事件が起こっても仕方がない ── という風に解釈したのである。
夜も十二時過ぎていたので、磯部が陸相官邸を辞去しようとすると、大臣は後から、ボール箱に入った日本酒を一本抱えて来て、磯部に手渡した。
おたけびという酒だ。一本あげよう」大臣は上機嫌で、肩を叩かんばかりの調子で言った。「三、四本あるといいんだが、二本しかないから、一本あげよう・・・自重してやりたまえ」
思いがけない好意だった。
磯部は、酒はあまりたしなまない男だが、せっかくの好意として、有難く貰った。よ同時に磯部は、陸相が二本しかない酒を一本分けてくれたのは、取りも直さず青年将校に対する好意だと受取ったのである。
── それに雄叫とは、幸先がいいじゃないか!
磯部は帰途、ひとり北叟笑えんだ。
数日後に、磯部は川島陸相と「交遊関係において最も厚い」と評されている真崎退場を、世田ヶ谷の私邸に訪問した。この日はちょうど相沢事件の第一回公判が開始される日で、磯部は傍聴する予定だったので、早朝、なけなしの金で自動車を飛ばして行った。
すると真崎は用心深く、取次の者に「用件」をたずねさせた。そこで磯部は名刺の裏に「火急の用件につき是非御引見賜り度」と書いて渡すと、ようやく応接間へ通された。
真崎はすぐ出て来たが、何事かを察知した模様で、応接間へ入って来るなり、
「何事か起るなら、何も言ってくれるな!」と釘を刺した。
いかにも真崎らしい出方であった。
磯部は、用件を簡単にすませる覚悟を決めた。
「統帥権干犯の問題については、我々は決死的な努力をするつもりで居ります。相沢公判もいよいよ今日から始まります。閣下も一層の御努力をお願いいたします・・・ついては唐突なお願いですが、色々と金が要るんです・・・金を貸してくれませんか」
ぶっきら棒な申し出だった。真崎は面食らったような、ちょっと迷惑そうな顔で眼をしばたいあたが、すぐさり気ない顔に戻って、
「オレは貧乏で、金はないが・・・一体、いくらぐらい要るのか」
「千円・・・御都合が悪かったら、五百円でも結構です」
「それぐらいか」真崎は詰めた呼吸を押して出して、「それぐらいなら、何とかなる・・・物でも売って、こしらえてやろう」
磯部が真崎大将と私的に会ったのは、これが二度目だった。普通その程度の付合いなら、金は出し渋る筈なのに、それが二つ返事で引き受けてくれたのだ。磯部の胸は大きくふくらんだ。
これは青年将校の思想、信念、行動等に、大将が深い理解と同情とを持っている何よりの証拠だ、と彼は信じ込んだ。
磯部はまた川島陸相の示した態度を、いそいで頭にかけのぼらせた。川島も、二本しかない日本酒の一本を分けてくれた・・・陸軍部内で、陸軍大臣とこれを中心とした一塊の勢力が青年将校の行動を認め、それに軍内の革新的強硬派の頭目たる真崎が背後から支援してくれたら、元老、重臣に突撃する青年将校を弾圧する勢力は、外にはない筈だ。若し弾圧することになれば、弾圧する勢力は、国民大衆の敵たる元老、重臣の一派とならねばならぬ、まさか軍部が国民の敵となって、重臣や元老と結託はすまい。多少の異論、あるいは相当の混乱は軍部内にも起るだろうが、頭から青年将校を叩きつけるようなことはしないだろう。
それが磯部の到達した情況判断であった。
2022/02/12
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