~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (3-05)
だが、いざ西田と差し向かいになると、磯部の打ち明けたい気分は、急速にしぼ んだ。まだ西田に打ち明ける時期ではなく、また事前に計画を話したら、青年将校との従来の関係上、西田に迷惑が及ぶだろう・・・いま西田に話してはならぬ。計画実行後、維新政府樹立の際こそ、西田の智恵を必要とする。それまでは、西田に立場は、安全第一でなければならぬ。直接行動そのもにには、西田を必要としないのだ。磯部はそう気がつくと、自分の心をはぐらかして、しばらく雑談に時を過ごした。話は、自然ぎこちないものになった。
「昨日、控訴院から呼び出しあってね」西田は話の切れ目に突然言い出した。「一・五一事件の当日、ぼくが川崎長光に撃たれた際に着ていた着物を返すと言うんで、受取って来たが・・・まあ、いい記念物が返って来たと思ってね・・・保存して置くつもりだ」
西田の長い顔には、一種感慨深げな表情が浮んでいた。
「そりゃ、いい記念物ですね。僕にも見せて下さい」
「見るかね」
西田は笑ったが、すぐ応接間の扉を開けて、
「おい、おい」と細君を呼び立てた。
小柄な細君が色白な顔を扉のかげに現わした。
「昨日の・・・記念物を持って来てくれ。磯部が見たい、と言うんだ」
間もなく、細君が風呂敷に包んだ衣類を運んで来て、ひろげた。白い木綿の肌着には、黒く乾いた血の塊りがべっとりと附いていた。凄壮な思いが、磯部の背筋を走った。「これは何よりの記念物だ」磯部は衣類から顔をあげると、思いを込めて言った。「西田さん、血が返って来るということは、いいことです・・・今年は、きっと何かいい事がありますよ」
磯部があまり熱心な言い方だったので、
「そうかな」
西田は笑いかけたのを、途中で停めた。
血が返って来る・・・・・・・ ── 血が返って来るとは、一体何だろう・・・血が返る・・・返り血・・・を浴びる・・・はてな? 西田は眉をあげて磯部を瞶めた。
磯部はその視線をはぐらかして、急に起ちあがった。
「失礼します」
そそくさと磯部は帰って行った。取ってつけたような帰り方だった。
「どうも、少し変だな?」
西田は細君と顔を見合わせたが、やがて吐息と一緒につぶやいた。
「磯部は情の人間だから・・・まあ、大したこともあるまい」
2022/02/13
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