~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (4-01)
二月十六に日 ── 土曜日だった。
日が暮れて間もない頃、代々木新田の磯部のあばら家に、河野大尉がひょっこりと姿を現した。腰には軍刀を帯びて居り、拳銃もブラさげている。
「そんな恰好で・・・どうしたんだ?」
磯部がいぶかってたずねると、
「わたしは一ト足先にやるかも知れません」
磯部は、その一言ですべてを察した。先夜の会合では、顔ぶれがいいから、今度こそ決行出来るだろうと喜んで帰ったのだが、所沢の下宿へ帰って、一人で考えると、同志たちの足並みが揃うのを待っているのがもどかしく、居ても立っても居られない気持に駆り立てられて出て来たのだろう・・・河野大尉の気持は、そのまま磯部の気持に通じた。
磯部は河野をみつめて、息を呑み込んでいたが、
「河野、我慢できないか」とたずねた。
河野は笑った。
「いや、牧野を偵察しに湯河原へ行くだけですよ」
「偵察だけならいいが・・・」磯部は河野の物々しい軍装が気になった。「決して短気を起しちゃいかん・・・今となっては、部隊の関係もあることだから、軽挙は出来んぞ」
すると河野は、
「なに、河野という奴は、悪の本尊ですよ。それにも拘わらず、運のいい奴だから、やれる時にやっておかんと、またいつやれるか分かりません・・・磯部さん、やれたら、牧野をやってもいいでしょう」
河野は落着きくさって、相変わらず顔に柔和な微笑を浮かべている。
瑠璃玉の如き微笑だ、心が澄みきっている証拠だ・・・と磯部は感動に胸をしめつけられた。
「よかろう、やって下さい」と磯部は言った。「東京の方は、僕が直ちに連絡して、急な弾圧に備える事にしよう。もしひどい弾圧を加えるようなら、弾圧勢力の中心に向かって突入することぐらいは出来るだろうから・・・やって下さい」
河野は、その晩、湯河原に向った。
だが、その翌日の同じ時刻に、河野大尉はがっかりした様子で、戻って来た。
「湯河原でね、光風荘という家を散々探したが、そんな家はないんですよ」河野は腹立たし気に話した。
それとなく様子を聞いてみると、牧野は大野屋へ時々やって来ると云うんで、わたしの泊まった宿屋の番頭を見にやったら、やはり居ないんです・・・ガッカリしちゃって・・・」
「そりゃ、飛んだ失敗だったな。新聞には、たしかにそう書いてあったんだが・・・まあ、仕方がない。何か別の方法で、牧野の居所を突きとめよう」
磯部は慰める術もなく、そう言った。河野の徒労に対する仇討ちのためにも、牧野の居所は突きとめよう、と磯部は我と我が心に誓った。
その間に栗原中尉がさかんに飛び廻って同志を糾合し、情勢が次第に熟して来た。そこで、二日後の十八日夜、駒場の栗原邸に、村中、栗原、安藤、磯部の四人が会合した。── 村中は、このところもっぱら相沢公判の文書戦に没頭していて、直接行動については考え込んでいる風があったので、A会合からは除外されていたのだが、栗原から熱心に勧誘されて、いよいよ決心を固めて出て来たのだった。
栗原は、大将陸軍大佐の実父の家に同居していた。離屋に若夫婦二人きりで住んでいるので、そういう秘密な会合にはもってこいであった。
会合の目的は。いついかなる方法で直接行動を決行するかにあった。襲撃目標は、度々の談合でほぼ決定していた。第一目標は岡田首相、高橋蔵相、渡辺教育総監、鈴木侍従長、斎藤内府、牧野前内府、西園寺元老等であり、第二目標として財閥の池田成彬、新官僚としての後藤文太夫その他が挙げられていた。
2022/02/14
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