~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (4-02)
栗原は、来週中に決行すべきことをしきりに主張し、磯部と村中が同調した。
「歩一は、来週の週番司令を山口大尉に交替してもらうことになっているし、すべての準備が整っているんです。小銃弾も二千発用意してある・・・来週中を逃したら、あとは適当な機会はありません」
栗原はそう説明した。
「歩三の方は、どうだ?」
磯部が安藤をかえりみた。
「歩三は、準備不足・・・」安堵がぽツンと言った。「今すぐやれといってもやれない状態だ」
「そりゃ、どういうわけだ?」
このドタン場へきて、そんなことを言われちゃ困る! といった調子で、磯部が詰め寄った。だが、安藤の口からは、はっきりした理由は聞き出せなかった。ただ「時期尚早」を口にしただけだった。
「これだけ機が熟しているのに、貴様はまだそんなことをいうのか」
磯部が歯痒そうに言うと、栗原もそばから、
「安藤さんの決心次第だと思うんだがなあ、どうですか」と詰め寄った。
「僕 個人の決心なら、いつでも出来ている・・・しかし兵隊を動かすとなると・・・」
安藤は口重く言って、あとは押黙った。
一同は沈黙した。
最後のドタン場へ来て、安藤はやれないと言う。それなら安藤は、こもA会合に、何故一度ならず二度までも出席したのか。栗原に無理やり引き出されたから、仕方なく出席したのか・・・だが、考えてみると、安藤はこれまで「やる」とは一度も言わなかった。いつも、「時期尚早」を唱え、自重論を固執してきた。それなのの安藤をいつの歩三を代表する革新勢力として重要視し、信頼をつないできたのは、一体何だろう? 栗原らの錯覚だろうか。だが、一概に錯覚として片付けられない不思議な雰囲気を、安藤大尉は持っている。安藤が起てば、歩三挙げて起つという雰囲気である。だが、その安藤が今は、「やれない」と言う・・・しかし「やる」とか「やれない」とか言っても、それは紙一重の見解の差であって、両方とも深い成算があってのことではない。いわば直観のようなもので、「やる」方の側から言えば、一日も早く日本の悪を斬り除かねば気が済まないだけだ。悪を斬り除いたあとをどうするか、となると、成算は何もない。ただ漠然と維新招来を希望しているだけである。それに対して「やれない」側の態度に、どれだけの深い理由があるのか。「時期尚早」と言うも、ただ決行そのものに漠然たる不安を感じているに過ぎないのだろう。
磯部は沈黙の中から自分を引抜いた。
「安藤君がやれないと言うなら、残念だが、仕方があるまい。僕は一人でも決行することに肚を決めているから、来週中、それもなるべく早い機会にやる方に賛成だ」
それで会合の目的たる決行の時期は、来週中 ── 大体二十六日頃、と決定した。
翌朝、磯部は十時東京駅発の汽車で豊橋に向った。
豊橋教導学校に対馬中尉を訪ねて、前夜栗原方で決定した事柄を伝え、かねてから打合せてあった興津の西園寺邸襲撃を依頼した。
「そうですか。いよいよよやりますか・・・西園寺は、こちらで引受けます」
対馬は顔一杯に喜色を浮かべて、快諾した。
興津の坐漁荘は、すでに二年前から襲撃目標として偵察してあるので、その地形や間取りや警備状態はよく分かっていた。ただ豊橋から興津まで、自動車で夜間七時間かかるので、その点がいささか心配だった。途中で邪魔が入らないとも限らない。
「なアに、どうせ飛び出すのは夜半近くですから、人通りはないし・・・ぶっ飛ばして行きますよ」
対馬は事もなげにそう言ってから、
「それはそうと、磯部さん、金がないんですが・・・何とかなりませんか」
「金か・・・金は僕もないんだが・・・」磯部はちょっと考えてから、「そうだ、鈴木主計が居た・・・鈴木に名刺を書くから話してみてくれ」
鈴木一等主計は豊橋から近い名古屋の第六連隊に居る。磯部とは経理学校時代からの知合いで、革新思想の持ち主である。
「鈴木さんなら、僕も話しいい」
対馬は。磯部の名刺を大事に財布に入れて内ポケットにしまった。
磯部は、日帰りで東京へ引き返した。
2022/02/15
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