~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第六章 何事か起るなら何も言ってくれるな
第六章 (5-01)
歩三の第六中隊と第九中隊の兵舎は、幅三十米のコンクリートの中庭をへだてて向き合っている。冬の太陽は、午前中は第六中隊を一杯に照らしているが、午後には翳って、反対側の第九中隊を斜めに照らす。
御前中太陽に照らされている第六中隊の中隊長室では、安藤大尉がじっと椅子に腰かけたまま瞑想めいそうにふけっている姿が、反対側の新井中尉の部屋からは手に取るように見える。来る日もくる日も、安藤大尉は組んだ掌に額を乗せたまま、一時間でも二時間でも身動きもしないでいる
「ああ、今日もまた安藤さん・・・悩んでいるな」
新井は、声に出してつぶやく。
安藤が悩んでいるのは、あのことだな、と思う。多分栗原あたりにハッパをかけられて苦境に陥っているのだろう。新井は決心して、安藤を訪れた。
第六中隊は、かつて秩父宮の居られた中隊である。その名誉ある兵舎に入ると、内務班をはじめ各部屋部屋の入口に貼られた「必死三昧、天下無敵」の中隊標語が眼立つ。ごく最近に貼り変えられたものである。他の中隊では、たいてい「清潔、整頓」位で、そういう標語は珍しいし、異様に映る。筆跡は安藤自身のものだった。
「なるほど・・・安藤さんらしいな」
新井はそう呟いて、中隊長室の扉をノックした。
入って行くと、安藤は振り向いて、
「何だ、新井か」
ふだんの活き活きとした、元気な表情で、迎え入れた。その顔には、つい今しがた、中庭を隔てて望見した悩みの跡は、みじんもなかった。
何かチグハクな感じで新井が椅子に掛けると、安藤の方から口火を切った。
「どうだ、初年兵教育は?」
安藤は矢継ぎ早に喋った。ふだんの安藤はそう喋る人間ではない。断片的には能弁だが、短くサッと片付けるのが、安藤の特徴である。その彼が矢継ぎ早に喋る。これは心に憂いを持っているのを隠すためだな、新井は察した。そういえば、心なしか、日灼けした安藤の赭ら顔も、幾分血書が悪いようである。
安藤の初年兵教育に関する話は続いた。
「満州の独立守備隊では、二週間で実践の役に立たせるんだ。内地では、それもひどいが、オレは一ヶ月で役に立つ兵隊にするつもりでやってる・・・貴公のところでは、どうしている?」
「速成も、一概に悪いとは言えませんがね。しかし教育はやはり順序を踏みませんと・・・私の所では当たり前にやっています」
安藤の事務机の上には、分厚な本が一冊のっていた。話半ばに、安藤は本を取って、新井に差し出した。
「読んでみろ、とても面白いぞ」
見ると、表題が「古今名剣客伝」と金文字で書かれてある。バラバラと頁をめくって、少し拾い読みした。面白そうである。「必死三昧、天下無敵」の標語は、この書物から取ったものらしかった。
「まあ、後にしましょう」
新井は、書物を返した。初年兵教育に忙殺ぼうさつされたいて、余分な書物を読んでいる暇がなかったからだ。ちょっと沈黙が来た。
「安藤さん、顔色がわるいようですが・・・悩んでますね」
新井はさりげなく言った。
安藤は驚いた風だったが、すぐ率直に肯いて、
「そうなんだよ。磯部や栗原に例の気魄でやられるし・・・オレも、実際苦しいよ」
いかにも安藤らしい、何の飾りもない告白だった。
「安藤さん、自分の是と信ずるところをまげて盲動してはいけませんよ」新井は安藤をみつめて熱心に言った。「義を見てせざるは勇なきなり・・・という言葉がありますが、蹶起を義と考えているような人達の眼からは、起たざる者は怯者きょうじゃと見えるでしょう。軍人として、怯者と見られるほど恥辱はありません。だから、誰もが勇者になりたがるんですが、しかしおのおの自分の信念に進むべきです。彼らの悪罵をおそれて自己の信念をげたら、それこそ怯者と罵られる以上の大卑怯者になります」
安藤は黙って聞いていた。新井の説に別に反対もしないし、意見も差し挟まなかった。
そのうちに話はまた雑談に移った。
新井が折を見て帰ろうとすると、安藤は急に、
「新井、オレはあのことはどうなってもいいと思うんだ・・・」と呻くように言った。
新井には、その言葉が何を意味するのか、よく分からなかった。突放されたようでもあり、また安藤が投げやりな気持になっているようにも受取れた。
「まあ、しっかりとよく考えて下さい」
新井はそう言葉を残して、安藤の部屋を出た。
2022/02/16
Next