~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第七章 二十六日朝ダト都合ガ良イト云ッテ居マス
第七章 (1-01)
西田の家には、安藤大尉を最後に、コトンと誰も来なくなった。栗原はもちろん、それまで二日にあげずに来ていた村中も、磯部も、姿を見せなかった。
「── 今日の状態は、もしあなたが押さえでもすると、軍隊の内部は取り返しのつかない混乱に陥入り、失礼ないい分ではありますが、あなたを撃ってでも前進する、というようなことが、起らんとも計り知れない状態になって居ます」
安藤大尉の重い口調が耳底に残っていて、それが重苦しく西田の胸をしめつける。
村中や磯部が姿を見せないのは、相沢公判の文書戦で忙しい、という理由もあった。相沢公判はすでに八回を重ね、弁護人の申請した証人調べは、橋本前陸軍次官に続いて林前陸相が喚問されたが、これは軍の機密保持という建前から非公開に行われた。続いて問題の前教育総監真崎大将が証人として予定されて居り、公判廷での真崎の証言が軍内外の注目をあびていた。軍法会議は真崎の証言で一波乱がまき起こるだろう、というのが大方の一致した観測だった。緊迫した空気が軍法会議の内外を包んでいた。
一方、殺された永田中将の同期生たちも公判の進行に異常な注意を払っていた。公判廷で永田中将の人格や陸軍内部委における功績が無視され、誹謗されている、として憤激し、永田中将弁護のために同期生代表が起って、軍法会議長である掘第一師団長の許に証人申請を提出したので、それがまた陸軍内部における対立抗争の緊迫した空気をあおっていた。
それだけに公判闘争を担当していた村中や磯部は、文書戦に忙殺されているに違いない。だが、公判闘争の文書戦は、何も村中と磯部二人だけの仕事ではなかった。西田もやって居れば、亀川も渋川も担当していたのである。
だから、村中と磯部がコトンと姿を見せなくなったことについては、
── これはいよいよ怪しい?
西田はそう考えざるを得ないのである。
西田は、自分が若い連中から敬遠されている、と感じた。長い間思想的に育成してきて、自分の子供か弟ぐらいに愛情をもって接して来た叛かれ、掌の中から飛び去られることは、何にもまして耐え難い、淋しいことだ。淋しいというよりは、むしろ居ても立ってもいられない焦躁感に駆り立てられる。
西田は落着かない気分で、相沢公判に出かけて行った。すると、それまでずっと熱心に傍聴に来ていた村中と磯部が、やはり来ていない。渋川の姿も見当らなかった。特別弁護人の控室をのぞくと、鵜沢博士の鞄持ちをしている亀川哲也が、ひとりぽつねんと坐っていた。
亀川は西田の姿を見ると、不満そうな面構えで、ボサリと言った。
「村中君や磯部君が、この頃公判に対して熱がなくなった。いろいろ探ってみると、公判とは別に何か企んでいるということだが、満井中佐など、それについて非常に心配している・・・つまりそんなことをしたら、公判も何もブチ壊しになる」
「そうなんです。それでぼくも、連中を家へ呼んだりして、いろいろやっているが・・・どうもぼくの手では、もう抑えが利かないような気がしてきた・・・」
西田は思いを正直に吐き出した。
「どういうんですか、それは?」
亀川は、熱心な眼つきで、西田を見つめた。
「要するに、満州へ行く前にクーデターを起こして、維新招来の犠牲になるという精神に燃えているんだが・・・」
「クーデターを起こして、あとをどうする・・・という案が出来ているんですか」
「さあ、そこまではよく分かりませんがね・・・事は自分たちが起すから、あとは我々に旨くやってもらいたい、という所じゃないですかな」
そんな程度の会話を交わして、西田は亀川と別れた。

2022/02/19

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