~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第七章 二十六日朝ダト都合ガ良イト云ッテ居マス
第七章 (2-02)
すると、その時、階段を上って来る重い足音がした。と思うと、いきなり襖がスーッと開いて、色の浅黒い髭面がぬっとのぞいた。山口の同期生で、戸山学校の教官をしている柴という大尉である。この男は、山口とはごく懇意にしているところから、案内も乞わずいきなり二階へ上がって来る癖があるのだった。
三人は、ひろげていた地図をかくす暇もなく、結局、地図をひろぎあげて密議をこらしていたような恰好になった。殊に村中と磯部は「粛軍に関する意見書」以来、陸軍内部では名物男であり、山口も同調者と見做されているので、余計そう思われたかも知れない。
「何だ、風邪をひいて寝込んでいるというもんだから、学校を抜け出して見舞いに来たら・・・大変な謀議をこらしてるじゃないか」
柴は高飛車に、わざと荒っぽく言ったが、その顔には見るべからざるものを見たという歪みがあった。
「いいだよ」山口は、さりげなく畳ながら言った。「風邪は、風邪なんだが・・・この連中も見舞いに来てくれたんだが、気分が悪くて本も読めないしするもんだから・・・いま、現地戦術の復習みたいなことをやってたんだよ」
「それじゃ、続けたまえ、オレはすぐ帰るから」
「いや、いま終わったところだ」
ジョマ化したが、やはりコマ化しで、ぎこちない空気が残った。
柴も表情の歪みを、自分で持てあつかいかねている様子であった。彼は村中と磯部を、見て見ぬ振りをした。
そこへ山口の細君が紅茶を持って上がって来たので、柴はホッと救われたような顔をして、二言、三言冗談を叩いていたが、そのうちに腰をあげた。
「じゃ、失敬・・・お大事に」
「オレは明日から週番だよ」
山口は柴を見上げて言った。
「そうか、渡満前で・・・何かと忙しいだろう」
「ま、何とかやってるよ。そのうち、週番でも明けたら、飲もう」
「うん、飲もう・・・じゃ」
柴は馴れた足取りで、階段を降りて行った。
玄関の扉のしまる音を聞いて、三人は顔を見合わせた。
「飛んだ邪魔者が入った・・・」
山口はそう言ってから、改めて二人の方に向き直った。
「その仮定としてのクーデターだがね・・・それを現在にあてはめてみると、時期が悪い。君らの有力な支持者が中央に居ないので、その結果を好転させる上部工作が全く望めない。時局は放任して成り行きに任せても、逐次好転して行く可能性もある。したがって今は事を起す時ではない。とオレは思う・・・それに方法が全く悪いよ。軍隊を動かすことは、絶対にいけない。やるんなら、同志の将校だけでやるんだね・・・一体、将校では誰々が参加する予定かね、栗原と、それから・・・?」
カマをかけてみたが、村中も磯部も笑って、答えなかった。
「それはまあ、言えませんよ、仮定ですからね」
村中がそう言ってコマ化した。
「それじゃ、もう一つ伺いますがね」磯部が膝を乗り出すようにして、「いま、仮に・・・仮にですよ・・・山口さんの週番中に、部隊が飛び出たら、山口さんとしては、どういう処置を取られますか」
「飛び出す部隊の規模にもよるが・・・まさか、歩一が全部飛び出しはすまい・・・?」
山口はさぐるような視線を磯部に向けて、
「そしたら、ぼくは週番で、連隊長代理だから、残存部隊をもって東京市中の非常警戒に任ずる。飛び出すのは、どうせ夜半か夜明け方だろうから、非常呼集をして、独断専行で帝都を護る・・・これは外部の部隊との無用な摩擦をさけるためだ」
「上部工作は?」
「出来るだけのことはする・・・必要とあらば、本庄侍従武官長を動かしてもいいし・・・また柳川中将あたりを台湾から呼び寄せるという手もある」
「内閣首班には、誰を持って来ますか」
村中が聞いた。
「君たちは、誰がお望みなんだい?」
逆に聞き返した。
すると、村中が笑いながら、
「まあ、真崎あたりでしょうな・・・」半ばとぼけて答えた」
二人は、それだけ聞けば、もう沢山だ、といった様子で、そそくさと帰って行った。
2022/02/23
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