~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第七章 二十六日朝ダト都合ガ良イト云ッテ居マス
第七章 (3-02)
その日は、午後四時に四谷の野中邸で、野中、村中、磯部の三人が落ち合って、蹶起趣意書について相談することになっていた。趣意書の草案は、蹶起将校団の先任者である野中大尉が週番中を利用して起草することになっていた。
週番の上番は安藤大尉であった。
午後四時に磯部が野中邸に赴くと、村中が先に来ていた。野中大尉も和服姿に寛いでいたが、磯部の姿を見ると、そぐ次の間から半紙に毛筆でしたためたものを持って来た。
「意を尽くしていないものだが・・・」
そう言って野中は、半紙を二人の前に置いた。
村中が、それを開いた。── 見出しは「決意書」となっている。
迷夢昏々、万民赤子何れの時か醒めるむ可き。一日の安を貪り滔々として惰風だふうに靡く。維新回天の聖業遂に迎う事なくして、嚝古こうこの外患に直面せんとするか。彼のロンドン会議に於て一度統帥権を犯し奉り、又再び我が陸軍に於いてその不逞を敢えてす。民主僭上の兇逆徒輩、みだりに事大排外、神命をおそれざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。我一介の武弁所謂上層圏の機微を知る由なし。ただ神命神威の大御前に阻止する兇徒不信の跳梁ちょうりょう目に余る感得せざるを得ず。即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挟みて天下に号令せんとするもの此々皆然らざるなし。皇軍遂に私兵化されんとすか。嗚呼、遂に赤子御稜威おんみいずを仰ぐ能わさるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望ぎょうぼうして他念なかりしが、その十全徹底は一意に大死一途に出ずるものなきに決着せり。我生来の軟骨滔天なんこつとうてんの気に乏し。然れどもいやしくも一剣奉公の士、絶体絶命に及んでや、玆に閃発せんぱつせざるを得ず。或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信してめいせん。
我が師団は日露政戦以来三十余年、戦塵にまみれず、其の間他師管の将兵は幾度か其の碧血へきけつそそいで一君に捧げ奉れり。近くは満州、上海事変に於いて、国内不臣の罪を鮮血を以て償えるもの我が戦士なり。
我等荏苒じんぜん年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。英霊に答うる辞なきない。
      我れ狂か愚か知らず
        一路遂に奔騰するのみ
           昭和十一年二月九日
                       於週番指令室
                         陸軍歩兵大尉 野中 四郎
大丈夫の意気が、筆端に燃えているようだ。「決意書」とあるが、同時にこれは「遺書」とも受取れるものだった。
顔をあげた村中と磯部に向って、野中は重い口調でポツリと言った。
「いま、我々が起って不義を撃たなかったならば、天誅はかえって、我等に降るでしょう」
野中は眉がキリッと締まって、鼻筋の通った、男らしい男である。ふだんは口が重く、冗談も言わない。歩三で営内居住をしていた頃、日曜日などに黙々としてひとり将校宿舎の周囲の草むしえいろしていたというので、聖人扱いをされている男である。
その野中が何の前置きもなく、いきなり、「天誅はかえって我々に降るでしょう」と言った。村中と磯部は、一瞬崇高な気にうたれた。
── そうだ、事態は、もはや多言を要しないのだ。ただ実行・・・蹶起あるのみだ!
磯部は感激に瞳をかがやかせて、
「野中さん、立派なものです。大文章です・・・あなたの人格と個性がハッキリ出ています・・・これを、このまま蹶起趣意書にしてもいいくらいです」
「いや、それはいけません」と野中はさえ切った。「これは、あくまでも自分個人の気持を書いたもので・・・好ければ、これをもとにして、村中君に筆を加えて貰いましょう。村中君は筆の立つ人だから」
野中の意見で、蹶起趣意書は村中が執筆することに決定した。
2022/02/26
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