~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第七章 二十六日朝ダト都合ガ良イト云ッテ居マス
第七章 (5-01)
一時間後に、西田は杉並区和泉町の北一輝の家で、北と差し向かいで話し込んでいた。二人の頭の上の壁面には、明治天皇の威厳ある肖像画が懸かっている。睡たげな、そのくせ鋭い眼差しの大帝は、ひそひそと話し込んでいる二人の右翼革命家の話を、聴くともなしに聞いている風であった。
「これはもう大勢でありますから、今までのように我々の一人二人の力で抑えることも、何かすることも、出来るものではありません」
西田が低めた声に力を入れて言った。
「ふむ、ふむ」
北は小柄な割合に大きな顔を動かして、肯き返した。西田の言葉が途切れると、片方が白濁した顔をあげて、西田をじっと見守る。
「私が捜索したところでは、襲撃目標は岡田首相、高橋蔵相、斎藤内府、渡辺教育総監、鈴木侍従長、牧野伸顕、西園寺公などで、西園寺公は、東京隊でなく、豊橋の部隊でやることになっているようdす。その他に財界の元兇として池田成彬えおやると言っている様子ですが、自分としての考えでは、財界をやるなら三井の主人公、三菱の主人公をやるのが至当だと思うのですが・・・しかし連中は、三井、三菱の主人公をよく知らないし、主人公等が今本邸にそれぞれ住んでいるか、どうか・・・邸内の様子も偵察して居らないので、どうするか、考えている様子です・・・その外、伊沢多喜男、後藤文夫などの新官僚についても考慮しているようです」
西田の言葉が終わると、北は小柄な体をゆっくりと動かして、白濁るしていない片方の眼をキラリと光らせた。
「青年将校で、すでに決定したことについては、自分は何も言わないし、また言うべき立場でもないが・・・」北はゆっくりと言葉を押し出した、「しかし、伊沢多喜男などという男は、牧野なんかの大木によって生きている、いわば寄生木に過ぎないと思う。だからそれらの大木の重臣共を倒してしまえば、寄生木の彼等は生命力を失い、もう悪い事をする力も無くなるだろうから、殺す必要なないだろう・・・殊に後藤文夫のような二流、三流どころの者まで殺すには及ばないではないか・・・ともかく、止むを得えざる者以外は、なるべく多くの人を殺さない、という方針をもってしないと、いけませんよ」
青年将校らの蹶起にはやる粗末な計画をだしなめるような言い方だった。
北とすれば、国家改造の指導と実行は若い西田に任せ、自分はもう隠居のつもりであった。だから隠居の発言としての忠告をしただけにとどめた。
それに対して西田は、別に何も答えなかった。ただ黙って、じっと考え込んでいるだけだった。立場上、苦しんでいる風でもあった。
しばらくすると、西田は言った。
「歩一の山口大尉が週番中でして、この人なら部隊が行動を起こしても邪魔されないだろうと言うので・・・どうも今週中に決行するよな気配が濃厚です。参加将校はまだハッキリしませんが、歩一の栗原中尉、香田大尉、歩三の安藤大尉、それに村中、磯部の両君が参加するもののようです・・・それで連中が事を起こした場合の事態収拾策ですが、・・・山口大尉は、直ちに岳父の本庄侍従武官長に連絡を取ると言って居りますが・・・連中としては、真崎内閣、柳川陸相・・・といったところを強く希望しているようです」
「真崎か」北は口に含んで、「しかし真崎、荒木は、やはり一体にならんといけないではないか」
「荒木・・・ですね」西田はいくぶん苦い顔つきで、「荒木は前の陸相時代に、軍内の粛正も出来ず、ただ言論ばかりで・・・その点では試験済みというように、連中は考えているようです・・・ですから、荒木は、事がそうなった場合は、関東軍司令官になるのがいいんじゃないかと思うんです。それが荒木のロシア知識その他・・・人物から見ても、それが一番荒木のためにも、国家のためにもいいんじゃないか、とそう私は考えています」
西田の脳裡には、クーデターが起った場合の後始末のことが色々に入り乱れ、錯そうしていた。だが、それらの事情は、前々から何度も計画され、練られて、頭の中の抽出にそれぞれを分類されてしまってあったものである。抽出の中味は、その時々の情勢に応じて入れ換えられたり、古くなって捨てたりしたが・・・・。
荒木は関東軍司令官に ── という新たな想定に対しては、こんどは北が黙り込んで、何の意見もさし挟まなかった。
「まあ、そういう事柄は、君ら若い者の考えに任すが、なるべく血気にはやってムダをするようなことがないようにして貰いたい」
北はそう言った後、白濁した眼をしばたいて黙り込んだ。
2022/03/01
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