~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第七章 二十六日朝ダト都合ガ良イト云ッテ居マス
第七章 (5-02)
一時間近くあれこれ話し込んで、西田は北の家を辞去した。
西田は円タクを拾って新宿まで出たが、何かそのまま家へ帰る気になれなかった。事件が起こった場合の想定があれこれ頭の中に入り乱れ、落着かなかったのである。西田は気紛れに時々立ち寄るカフェへ寄った。
薄暗い証明。どぎつい化粧と衣服をまとった女給達。電蓄が奏でるジャズの喧躁けんそう・・・暗いボックスで三、四人の女給に取り囲まれて西田は酒をチビチビ呑んだ。
「あら、先生、お珍しいのね、一人でいらっしゃるなんて」
顔見知りの女給の一人が割り込んで来た。
「そうさ、オレだって、たまには一人で来たいよ」
「お上手ね」
新宿には西田は住居が近いせいもあって、馴染みの家が、外にも何軒かある。大ていは西洋料理店や小料理店で、山口大尉や、村中や、磯部や、亀川などの連絡場所に使っている言えである。
西田は、しかしそういう顔馴染みの家には行きたくなかったのだ。気持が切迫して、平素の懇意な顔馴染みと口を利くのがイヤだったからである。西田は、むしろ一人きりになりたかった。思い切り馬鹿々々しい喧噪の中に身を沈めての孤独・・・そんな状態を漠然と欲して、カフェに飛び込んだのだった。
だが、西田は孤独になれなかった。
女給達は勝手に喋り、話しかけ、皿の物を食べ、酒を呑み合い、勝手にまた酒と料理を注文した。喧躁と女給達の媚態は無意味なものではなく、意味を持って西田の気持を突つき廻した。── 西田は後悔した。
それでも二十分ほど、西田は酒を呑みながら、需給達としっくりしない冗談口を交わしていたが、どうにも我慢が出来なくなり、カフェを飛び出した。
もはやどこにも行き場はなかった。
円タクに乗ると、それも幾らか気分の転換になったことを発見した。カフェへ飛び込む前のイライラした気分は、もうすっかり落着いていた。
西田は、まっすぐ家へ帰った。
すると応接間に、亀川が待っていた。二十分ばかり前に来たのだ、という。
「真崎大将のところへ連絡に行った帰りなんだが・・・」亀川は、西田と差し向いになるとすぐ切り出した。「真崎大将に、閣下も近くいよいよ証人に出て貰うことになるが、公判廷で大いに頑張って貰いたい、と申し入れた・・・しかし真崎が言うには、軍の機密を喋ることになるから、勅許を必要とする。勅許がなければ、何も言えない、と渋い顔をしていた」
相沢公判の証人調べは、すでに橋本次官から林元陸相にまで及んでいた。林の証言は、軍の機密に関するという建前から非公開で行われた。だが、特別弁護人の満井中佐の話によると、林の供述は、やはり勅許を経なかったので証言は要領を得なかった、という。
「そういう勅許を得るには、どうすればいいんですかな」
西田が聞いた。
「真崎大将が言うには、勅許を得られるように自分は軍法会議に上申書を出すから、弁護人の方でも、裁判長に対して、その手続きを取ってもらいたい・・・それからでないと一言も喋れない、と言うわけです」
「それじゃ、至急その手続きを取って貰いましょう・・・鵜沢博士には、あなたからお願いしていただけますか」
「鵜沢博士にも、満井中佐にも、私から話しましょう、どうせ私は公判のたびに軍法会議で会いますから」
亀川は話しながら、鵜沢博士が最近西園寺公を訪問する、と言っていたのを思い出した。
── そうだ、鵜沢博士に西園寺公を動かしてもらって、勅許を早く取る、そいう手があるかも知れない!
2022/03/01
Next