~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (1-02)
山口は廊下へ出た。一たん廊下から廊下へと営舎内巡察に行きかけたが、途中の出入口から営庭に真白につもっている雪を見ると、急にその下を歩きたくなって、外へ出た。
雪は一尺ほど積もっていたが、その上になお暗い空から 霏々ひひとして舞っていて、山口はたちまち雪の乱舞の中に巻き込まれてしまった。
山口は空を仰いだ。暗い空から何千何万という粉雪が彼をめがけて殺到して来る。くらくらと、眼まいがしそうである。
「── 雪は上の方では黒く、下へ来ると白くなるのはどういうわけか・・・なるほど!」
山口はつぶやいた。相沢公判での鵜沢博士の弁論の中に引用されているアメリカの哲学者の言葉を、ふと思い出したのだ。
だが、山口はそのくせ何も考えてはいなかった。禅問答のようなその言葉には何の興味もなかったし、また興味を持つほどの心の余裕もなかった。彼の心の中は、さし迫っているらしい直接行動のことで一杯だったのである。
山口は歩き出した。
── いよいよ飛び出したら、週番司令としてのオレはどういう処置を執るべきか?
ゆっくりゆっくり、歩いているうちに、山口の脳裡のうりには、ふと具体的な考えが閃いた。
── そうだ、戒厳令が布かれるかも知れんから、部隊配置のための地図が必要だ・・・首相官邸とか陸相官邸などを占拠せんきょするようなことを洩らしていたから、麹町を中心にした地図を二、三百枚刷っておく必要がある!
そう思いつくと、山口は中隊の方へ引き返した。
中隊事務所へ入って行くと、週番下士が一人居た。
「麹町附近の地図はないか」
「あります」
「ちょっと出してくれ」
軍曹は書類戸棚から地図をり出して、山口の前にひろげた。軍用地図である。
「この辺を中心にして・・・」と山口は首相官邸を中心に四角な枠を示して、「この辺までの略図をガリ版で刷ってもらいたいんだが・・・」
「承知しました、どの位刷りますか」
「そうだな、二百か、三百もあったらいいだろう。非常に急ぐんだが」
「では、これからすぐやります」
軍曹は、何の疑いも持たない様子で、すぐ厚紙を取り出して、仕事にかっかった。
三十分ほど、山口は週番士官の仕事を見たり、注意や註文をつけたり、手伝ったりした後に、週番指令室へ引き返した。
── 磯部の奴に逐い出されたおかげで、仕事が一つだけ片付いた。
山口は顔に微笑を泳がせた。
司令室では、密議が一通り済んだらしく、野中らは勝手に番茶を入れて飲んでいた。
「ちょうどいい所に帰って来たらしいな」
山口は諧謔かいぎゃくめかして言うと、磯部は真面目な顔つきで、
「はあ、おかげ様で済みました・・・明日の晩、もう一ぺん集まりたいんですが・・・」
「ああ、いいとも」
「明日の晩は、少し人数がふえます」
「ふえても、構わん。山口に面会だと言って、表門から入って来たまえ・・・面会簿に名前なんかつけないで、スラスラ通すように衛兵指令所に手配しとくから」
「お願いします」
間もなく、四人は散会した。
── 明日の晩も会議を開くところを見ると、決行はまだもう少しあとだな・
山口は四人を営門前の雪の中へ送り出しながら、勝手にそう想像をめぐらせたのだった。
「やあ、ひどい雪だな。一種の転変地異だ・・・こんな時には、人間の世界にだって何が起こるか分らんて!」
磯部の声が雪の舞う中で聞こえた。
四人は巷の闇の中へ吸い込まれるように一塊になって歩いて行った。
2022/03/06
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