~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (2-01)
村中は、新宿で磯部に別れると、ひとり中野の北一輝宅に向った。── 仲間から依嘱いしょく されている蹶起けっき趣意書の下見をしてもらうことと、蹶起についての北の最後的な意見を徴したかったからであった。
実を言うと、村中は直接行動に参加するまでには、何度か躊躇し、悩んだ。十一月事件に続いて、「粛軍に関する意見書」で免官処分になってから、村中、磯部と、事毎に名を連ねて世間から呼ばれ、またそのような行動もして来たのだが、一時はその磯部から離れた形になった。離れたというよりは、相沢事件以来、直接行動一本槍で進んで来た磯部の直情径行について行けなかったからである。それで村中は、磯部の話には耳を蔽うようにして、相沢公判の文書戦にだけ没頭していた。その間に、磯部や栗原らの奔走で、直接行動の気運が急速に熟して来たのだった。
村中は、悩んだ。そしてその悩みを、西田に訴えた。西田は相沢公判の責任者であり、直接行動については時期尚早を唱えていたので、何か妥当な意見なり、解決策なりがあるだろう、と思ったのだ。だが、その時はまだ西田には何ら解決策はなかった。
そこで村中は、北一輝の門を叩いた。── 北は、このところ思想関係の思想は一切西田に任せ、自分は法華経に帰依きえし、読経三昧どきょうさんまいに暮らしている。
村中が青年将校の動きを話して意見を求めると、北は、
「それでは日蓮上人の御告げを聴いてみよう」
えおう言って、さっそく妻女と二人で「何妙法蓮華経」の誦経じゅきょうをはじめた。村中も後方に坐って、一緒に誦経していると、間もなく妻女に上人の霊がのりうつり神憑かみがか りの状態になった。
北が御伺いをたてた。
「── 第一師団将士の渡満前に、在京の青年将校蹶起し、兵馬大権の干犯者を討ち、君側の奸を除き、以て御稜威みいつを現わさん方針なるが、如何?」
俯伏せになった妻女が身体をふるわせ、声をしぼって重々しく答えた。
「── 御稜威尊し」
「── 然らば、兵馬大権干犯如何?」
青年将校が部隊を動かして直接行動に出るのは、大権干犯になりはせぬか、との問いであった。
妻女がふたたび重々しく答えた。
「── 大義名分、おのずと明らかなるは疑いなし。他は末節まつせつに過ぎず」
御告げは終わった。
村中は身体じゅうにびっしょりと汗をかいた。── 何だか自分が虫けらのように小さく、臆病者に思われ、気恥ずかしかった。
北は村中をかえりみて、片方が白濁した眼をしばたきながら、静かな口調で言った。
「青年将校らが、満州へ行ったら御維新の奉公が出来ない、という考えは間違いだが・・・しかしどうしても事を起すならば、蹶起の趣旨を単一化して、殺害などは、出来るだけ最小限度にとどめなければいけませんね」
村中の決意は、それで固まったのだった。──
北は小柄な身体を、茶の間の炬燵こたつに埋めて、起きていた。
「外は大変な雪のようだが、まだ乗り物は大丈夫でしたか」
北はそう訊ねた。
2022/03/08
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