~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (3-01)
明けて二十五に日になった。
だが、湯河原に細君同伴で牧野を偵察に行った渋川善助が、どうしたのか、帰って来ないのである。磯部は朝からヤキモキしていたが、とうとう我慢がならなくなり、近くの西田の家に様子を見に出かけた。それに前日、西田に決行の日取りだけを簡単に置き手紙したままで、まだ計画の具体的な内容と準備完了の状態を報告してなかったので、それを知らせて、西田を安心させる必要があると思ったのだった。
西田は宅で、磯部が計画内容について細々と話し込んでいると、十時過ぎになって、渋川の細君がひっこり姿を現わした。
細君は、渋川の手紙を持っていた。つまり密使として帰って来たのだった。
西田と磯部は大急ぎで手紙をひらいた。
それによると、牧野は確かに伊藤屋の貸別荘に滞在していて、伊藤屋本館に滞在中の徳大寺男爵の許に、時々碁を打ちに来るが、警戒厳重で、いつも計悪寒警官四、五人が護衛しているという。
それはいいとして、渋川はそのまま待機して牧野襲撃に加わる、と言って来た。
「おい、どうする?」
西田が磯部を見た。
「そりゃ、いけません」磯部は言下にしりぞけた。「渋川さんが手を下しちゃいけません・・・渋川さんには外に役目があります。東京に残っていて、もっぱら外部工作に当たって貰わなければなりmせん」
「ぼくもそう思うんだ。それじゃ手紙を書いて、呼び戻そう・・・奥さんにすぐに湯河原へ引き返してもらったら、間に合うだろう」
西田はさっそく手紙を書きにかかった。
それを見て、磯部は自宅へ舞い戻った。十一時に、河野大尉が渋川牧野偵察の守備を聞きにやって来る約束になっていたのだ。
── これで河野への本物の土産が出来た!
磯部は、河野の来訪を、胸おどらせて待った。
だが、その河野が約束の十一時を過ぎても姿を現わさない。そのうちに十二時になり、一時になり・・・とうとう二時になった。
「こりゃ、ダメだ。何かの故障で来られなくなったんだろう・・・」と磯部はひとりごちた。
「河野が故障だとすれば、誰かが代わらなければならんが・・・今となって配置転換はむずかしい・・・よし、牧野はオレが引受けよう!」
磯部はそう考えをきめると、それを栗原と相談するために、急いで身支度にかかった。栗原の賛成を得れば、磯部はそのまま湯河原へ赴く考えであった。
── ひょっとすると、このまま帰れないかも知れんな・・・!?
怖れがチラッと頭をかすめた。
だが磯部は、細君にはどこへ行くとも明かさないで、ただ、
「ちょっと出掛ける」
そう声をかけて、玄関に降り立った。
するとその時、立てつけの悪い玄関のガラス戸がギクシャクと開いて、河野大尉がぬッと姿を現わした。
「何だ、君か・・・あぶなく出掛けるところだった」
「おくれて申訳ありません。実は・・・」
河野が弁解しかけるのを、
「まあ、上がれ」
さえ切って、座敷へ招じ入れた。
「今朝、登校したら、急に金丸原へ飛行せよ、と命ぜられたんです。理由を言って断るわけにも行かず、仕方なく飛行機を出しましたよ」河野は真面目くさった顔つきで話した。「午前十一時の約束におくれては大変だと思い、ままよ、墜落したらそれまでだ。オレには運がないんだ、と覚悟を決めて、無茶苦茶に速力を出して飛びましてね、とうとう一番乗りをやりました・・・神様が助けてくれたのか、無茶苦茶をやらかして飛んだのに、墜ちなかったですよ・・・しかし、そのために約束の時間におくれて申訳ありません」
「いや、そんならいいんだが、ぼくはまた何かの故障で来られなくなったんだと思って・・・代わりに、ぼくが湯河原へ行こうと思って、いま出掛けるところだった・・・いや、まあ、来られて好かったですよ」
磯部は、河野の行動が大胆不敵なのにあきれもし、これなら牧野は必ず討ちとめるだろう、とひそかに思った。
2022/03/09
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