~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (4-01)
西田は、世田谷根木町に満井中佐を訪れたが、まだ公判廷から帰らない、ということだったので、自動車を何となく青山の第一師団軍法会議場に向けてはしらせた。
この日は、相沢公判が開かれて居り、真崎大将が二回目の証言に呼ばれていた。亀川の話によると、真崎大将は相当な決意を抱いている様子なので、勅許が得られれば、陸軍のこれまでの内紛と統帥権干犯問題に対して重大な証言をして、公判廷は、一大は波瀾をまき起す筈だった。場合によっては維新回天の曙光がそこからつかめるかも知れない。
「ちょっと徐行してくれ」
西田は徐行する車の窓から、軍法会議場の方をのぞいた。雪の積もった前庭に、新聞社の自動車が十台ばかりズラリと並んでいたが、あたりはひっそりと閑としていて、別に変わった様子も見受けられなかった。
── まだ公判が続いているのかも知れない。
西田はそう思ったが、それ以上は、その附近をウロついている訳にも行かなかった。
「新宿へ行ってくれ」
別に確たる目的もなかったが、運転手にそう命じた。
新宿の三越前で円タクを降りると、そのまま西田は三越へ入って行った。皮革品の売場で手頃なボストン・バッグをもとめ、二階へあがって封筒と便箋とを買った。それらの品物は、いよいよ事が起った場合の用意だった。
西田としては、事が起これば、青年将校とのこれまでの関係上、当然身体の拘束を覚悟しなければならなかった。一そのこと、蹶起部隊の中に紛れ込んで居れば身体の拘束はまぬかれるかも知れないが、それでは今度の決行には民間人はまじえないという青年将校らの方針ににも叛くし、純粋な彼等を立場を不純なものにするおそれもある。そうだとすれば、結局西田は彼自身の途を選ぶより外にない。つまりあくまで外部にあって、彼等の目的達成を援助することだ。それには身体の自由を確保する必要があるから、しばらく所在をくらまそう ── 西田は、そう決心を固めた。
買物が終わると、西田は、じゅと亀川に連絡することを思いついた。どうしても相沢公判の模様を知っておきたかったからだ。そこで彼は喫茶店で時間をつぶしてから、亀川の自宅に電話した。
亀川は、公判廷から帰宅していた。
「相沢公判の模様をお聞きしたいので、これから伺います」
西田はそう申し入れて、電話を切った。
円タクを飛ばして、芝今里町の亀川宅に赴くと、村中が先に来ていた。村中もやはり公判の様子を聞きに来たのだった。
三人は、しばらく公判の模様を話した。
亀川の話によると真崎大将の証言は矢張り勅許が得られなかったので少しも進展していなかった。
「これまでの証人申請の中には、三月事件や十月事件の関係者が入っていませんね・・・あれはぜひ証人として喚問する必要がありますね」
村中が不満そうに言った。
それには西田もまったく同感だったので、
「鵜沢博士は、どういう考えで居られますかね」
と亀川に聞いた。
「鵜沢サンという人は、純粋の学者肌の人で、こちらがいろいろ注文をつけると、一応は聞くが、自分の法理論的な考えに合わないと採用しない、何しろ法律の哲学者ですからね」
亀川はそう説明してから、
「博士は、いま公訴取下げ問題に没頭している。つまり相沢中佐を精神異常者として公訴取下げ ── 釈放にまで持って行こうというわけだ。これはぼくの作戦でね・・・鵜沢サンは、その問題で、今晩か、明朝早く西園寺公を興津に訪問して、諒解を得るつもりだ、言ってたが、今晩は行っても仕方がないから、明朝になるだろう。ぼくは一緒について行って、西園寺公に色々と意見を具申しようと思う」
亀川は、鵜沢博士に便乗して西園寺公に会うことに、ある誇りと期待とを抱いているような様子であった。
2022/03/11
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