~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (4-02)
「色々やっていただくことは結構ですが・・・」村中が言った。「しかし相沢中佐を精神異常者とすることは、どうですかな・・・士気に影響しやしませんか」
後の言葉は、西田に向って発せられた。
西田は肯いて、
「影響しますね」
「士気に影響する?」亀川は聞き咎めるように二人を見つめた。「しかし弁護人の苦心は、いかにして相沢中佐を死刑から無罪にするか、という点にかかっているんだからね。相沢を法律的に無罪にしないならば、何も弁護人は要らないわけだ」
それはそうでしょうが・・・それでは永田を斬奸ざんかんした相沢精神というものが、全く殺されてしまいますね」
村中が言うと、亀川は、
「それでは、君達は相沢中佐を死刑にしたいのかね」
皮肉たっぷりに逆襲した。
「死刑には、勿論したくはありません。けれども、気違いの汚名をきて無罪釈放されたんでは、相沢中佐の精神が死にます。精神が死んで、相沢だけが生き残ったんでは何にもなりません・・・気違いではなく、至誠に出でたる当然の行為として無罪になるか、然らずんば死刑になるか、そのどっちかです」
村中の口吻こうふんには、一種の気魄がこもっていた。
三人は話題を変えた。
しばらく雑談していたが、そのうちに村中が時計を見て、急いでそわそわと起ちあがった。
「ちょっと用事がありますから、お先に失礼します」
西田が起って、玄関まで見送った。
亀川もその後からついて行った。すると玄関で西田と村中が立ち話していた。少し離れて立っていると、二人の間で、「日本銀行、三井銀行・・・襲撃」というような言葉がやり取りされているのが、小耳にはいった。
── いよいよやるのか!
亀川はm二人に声をかけた。
「もう一度、座敷へ上がってくれ・・・ちょっと用事がある」
亀川は、しぶる村中と西田を元の座敷へ引き戻すと、急いで奥の間から、二千円ほど紙幣を懐に入れて来た。── 前日、いつも情報をしている実業家の久原房之助に最近の青年将校の切迫した動静を伝えて、金五千年也を貰って来てあった金の一部である。
亀川は、いきなり二人の前に紙幣を差し出した。
「理由は何も言わない。またそちらからも聞かなくともいい・・・とにかく金が要るだろうから使ってくれたまえ・・・二千円ある」
西田と村中は困惑した顔で、ちょっとの間押し黙っていたが、やがて、
「金は要りません」
二人は異口同音に言った。
「要らない、と言ったって、現在要らないようでも、いつ要る場合が起るかも知れんし・・・その時、金が無いばかりに、思わないまごつきをすることも往々あることだから・・・持って行きたまえ」
「それじゃ、折角だから、半分だけ拝借しましょう」
西田は妥協的に折れたが、亀川があくまで全部持って行けと執拗に言い張るので、仕方なくといった様子で、
「それじゃ、千五百円だけ拝借します」
西田は百円札を五枚残して、その全部を村中に渡した。
村中は受取って礼をのべると、時間が気になるらしく、すぐ起ちあがった。
「今晩から何かやりますから、あとをよろしく願います」
そう言葉を残して出て行った。
村中を玄関に送って座敷へ引き返すと、亀川は西田にさっそく訊ねた。
「何かをやると言うが・・・若い連中は、どの程度のことをやろうとしているのか」
「明朝未明、一連隊と三連隊が起って、重臣を一斉に襲撃することになってます」
西田がそう答えると、亀川は眼を光らせて、
「可能性があるか」
「可能性はあります・・・で、事が起こったら、青年将校らの希望として、真崎内閣、柳川陸相ということにしたいですから、真崎対象へは、あなたからよろしくその旨を伝えて置いていただきたいのです」
「承知した」と亀川は引受けた。
「とにかく銃声が聞こえたら。事が実現したと思って下さい」
西田は二十分ほど話して、帰って行った。
亀川は、西田が帰ったあと、すぐ身支度をして、白金三光町の久原邸へ赴いた。── 日頃、何かと経済的な恩顧を蒙っている久原に、事情を真ッ先に提供するためだった。
だが、壁のストーヴに薪がチョロチョロ燃えている応接室で、亀川がそれを伝えると、久原は各帯の腹をなでて笑った。
「そんなバカな事が出来るか」
久原が折角の情報を頭から信用しないので、亀川は張合い抜けがした。
「そう馬鹿にしたもんじゃないですよ、今度起ったら事は大きいですよ、五・一五事件どころの騒ぎではありませんかtらね」
亀川は、西田から聞いた話に多少の尾ヒレをつけて、青年将校の動静を細かに説明した。
久原はフンフンと聞いていたが、しかし最後まで半信半疑の顔つきであった。
2022/03/13
Next