~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (5-01)
磯部は山本を連れて、雪の中を円タクで歩一に赴いた。
衛兵司令所で、
「山口大尉に面会・・・」
そう申し入れると、別に名前も訊かずに通した。
磯部はいかし山口大尉の部屋には寄らずに、まっすぐに栗原中尉の機関銃隊に赴いた。
機関銃隊では栗原、丹生、林、池田等が集まって、しきりに外部との電話連絡や最後的な打合せに大童おおわらわだった。
栗原は磯部を見ると、嬉し気にそばに寄って来て、
「大体、内外の連絡も緊密に取れて、準備万端滞りなく整っています・・・」
「ただ残念なのは、興津の西園寺を担当している豊橋部隊が、兵力使用の問題で、今日になって板垣中尉が反対したために、計画が挫折ざせつしてしまいました・・・対馬中尉と竹島中尉は、東京部隊に合流するために上京すると、先ほど連絡がありました」
栗原は、彼自身が先日夫人同伴で、小銃弾二千発を持って連絡し、用意万端ととのえた矢先だけに、あきらめ切れない様子だった。
「それは残念だが、これくらいの大仕事に一つぐらいな故障が起こるのは、止むを得んだろう・・・西園寺は、都合で、第二次に残してもいいじゃないか」
磯部はそうなぐさめ顔に言った。しかし、彼自身も連絡に行っているだけにあきらめきれないものが胸に残った。
「田中部隊は大丈夫だろうね?」
磯部が聞いた。
田中部隊は、鴻ノ台の野重で、乗用車一台、トラック三台、サイドカア附オートバイ一台をもって、主として輸送の任務を担当することになっていた。だから、それが来ると来ないとでは部隊行動の機動性に影響するところが大きいのだった。
「田中部隊からは、まだ何の連絡もないが、そのうち何とか連絡があるでしょう・・・こっちからも、電話で連絡を取らせていますから」
栗原がそう言っているところへ、田中部隊から伝令がやって来た。若い下士官である。
「田中部隊の準備は完了しました」
「よゥし・・・御苦労!」
栗原が声をあげた。
「これで万歳だ」
磯部がそばから思わず言った。
伝令を帰してから、栗原が磯部に向かって言った。
「万歳はいいが・・・磯部さん、その恰好じゃいけません。軍服に着替えて下さい、そこに用意してありますから」
栗原が指した机の上には、軍装が一揃え置いてあった。
磯部は起って、さっそく着替えに取りかかった。襟章は磯部の元の兵種の主計で、肩章もやはり元の大尉の肩章だった。それに上衣も袴も、大体身体に合っている。
「これは、よく合った奴があったもんだね・・・まさか、古着屋に売ったオレの服じゃあるまいな」
上衣の胸許を裏返して見たが、知らない人の名前が縫いこんであった。── 誰のでも構わない、着てさえいれば、蹶起部隊と同一行動が取れるんだ。
磯部は真鋳のボタンの一つ一つの冷たい感触に懐かしさを掻き立てられながら軍服を着た。
軍服も借り物なら、軍刀も、拳銃も、みな人の物だった。磯部はそれらのかつての所持品を免官以来の窮迫の生活のために、みな売り払ってしまったのである。
「磯部さんは、やっぱり軍服が似合うな・・・男前が数等あがりましたよ」
栗原がそう冷やかした。
「おう、そう冷やかすな」磯部がムキな顔で言った。「おれだって照れることもある・・・照れると、気魄が鈍るからな」
周囲からドッと笑い声がおこった。
磯部は軍服を着込むと、その足で第一中隊に赴いた。香田大尉の中隊である。
中隊長室には香田と村中が待っていた。── 村中もすでに誰かに借りた軍服を着込んでいたが、少し服が小さくて、見るからに窮屈そうであった。そのため村中は襟のホックをはずしていた。
村中と磯部は顔を合せるが否や、一年ぶりで着たお互いの軍服をいそいで点検しあった。
「おい、貴公のはちょうどよくて、なかなかお似合いだが、オレのはこの通り・・・窮屈で、首のホックがはまらんのだ」
村中は首を左右に廻して、苦笑を浮かべた。
「まあ、軍服は陸軍大臣やその他の連中と会うための門鑑のようなものだから・・・着てさえいればいい訳ですよ」
栗原がそう言うと、村中は、
「そういう訳だ」と肯いた。
三人はさっそく、陸軍大臣に対する要望事項と斬殺に処すべき軍人の選定と、占拠後の陸軍省等の門衛の通過を許すべき名表の作成にとりかかった。
陸軍大臣に対する要望事項は、主として香田と村中が作案した。
中隊事務室では、若い将校と下士官等が、村中の起草した「蹶起趣意書」をガリ版で印刷していた。
栗原が忙しくそちこちに顔を出して、それらの仕事の進行状態を見て歩いた。
2022/03/16
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