~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (5-02)
週番司令の山口大尉は、営内をコツコツと巡察していた。彼は事態がここまで来た以上、何も見ないで、週番指令室にじっとしている方がいいことは分っているのだが、さて気になって仕方がないといった恰好で、一つ一つのぞいて歩いた。
第十一中隊の事務室をのぞくと、若い少尉と下士官数名がガリ版刷りに大童であった。印刷物の見出しが「蹶起趣意書」・・・
「それを一枚、ワシに呉れんか」
声をかけると、驚いて振り向いた少尉 ── 山口は名前も知らなかった ── が、硬い表情を示して、
「これはまだ上げられません」
ニベもなく拒絶された。
山口は、週番指令室へ引き返した。
週番肩章を取り、外套を脱ぐと、そのまま駿台にひっくり返った。週番勤務以来、事態の切迫に対して、あれこれと対処方法に気を病み、ほとんどまともな睡眠をとっていなかった。身体は硬ばった疲労に蔽われ、頭の芯は重くうずいた。
「蹶起趣意書」を印刷していたところを見ると、決行は今夜か、明日か、と山口は頭の下に両掌を組んで、眼をしばたいた。── ひょとしたら、今夜の夜明けかも知れんぞ!
山口はガバと身を起こした。ふぁが、別に何という考えも浮かななかった。精神の虚脱したような状態で ── そのくせ絶えずあれこれと考え、いらいらしていた ── ぼんやりと空間を凝視したり、物音にきき耳を立てたり、キョロキョロとあたりを見廻したりしていた。
コツコツと扉が鳴って、栗原中尉が姿を現わした。珍しく手に一升瓶をぶらさげている。
「今夜は、大分お客サンがあるようだな」
山口は皮肉っぽく浴びせた。
「ええ、まあ」栗原はあいまいにニヤニヤ笑って、「今晩は何人か集まって、最終的な相談をしたり、趣意書を書いたり・・・」
「オレは、さっき見て来たよ。もうガリ版で刷ってたよ・・・一枚呉れと言ったら、何という少尉か、おっかない顔をして、これはまだ上げられません、と言って呉れなかったよ」
「そうでしたか」栗原はもう一度笑いを落として、「・・・とにかくそういうものを作成したり、予行演習をしたりするんですが・・・山口さんが顔を出すと、皆がうるさがりますから、今夜はこれでも飲んで寝て下さい」
栗原は一升瓶の口を開けて、有り合わせの茶飲み茶碗に注いだ。栗原自身は一滴も呑めないのである。
「君から物を貰うのは初めてだな・・・少々あやしいぞ」
山口は毒饅頭でも喰う思いで、栗原の注いでくれた冷酒を吉へ運んだ。
「大丈夫ですよ。やる時は男らしく、やる、と言いますから、その時は助けて下さい」
「そうか。そんなら君らの言葉を信じて、今夜は、オレはこの酒を頂戴して寝るよ・・・何しろオレは、君らがガタガタしているおかげで、ここ三、四日というもの、ほとんど満足な睡眠をとってないんだ」
「それじゃ、今夜はこれを飲んで、安眠して下さい」
栗原は二、三杯注いで、立ち去った。
山口は、しかし栗原の言葉を文字通り深奥信用したわけではなかった。一升瓶の贈り物とその朗らかな微笑から、逆の意味を読み取ったのである。
── いよいよやるな!
そう山口は察した。
2022/03/16
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