~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (6-03)
首相官邸では、数発の銃声が起った。先発した栗原部隊である。
── やったな、いよい始まった!
丹生部隊の最後尾について首相官邸への坂を上りかけていた磯部は、胸を雀躍させた。何か秋季演習の連隊対抗の第一遭遇のとッ初めのような感じであった。緊迫感がふっ切れて、わくわくする感銘がサッとひろがった。磯部が首相官邸の正門前を過ぎた時には、官邸は栗原部隊によって完全に占拠された様子であった。
「どうやらうまくいったようだな」
磯部は並んで歩いていた山本に話しかけた。山本は借り物の軍服を着ていた。
「そうらしいですね」山本が応じた。
ドイツ大使館前にさしかかると、三叉路の交番で、一人の警官が緊張した面持ちで電話にかじりついているのが眼にとまった。
「あいつ、警視庁にでも通報してるんじゃないかな?」
磯部が立停まると、
「そうでしょう、きっと」と山本も立ち停まった。
「一つ試射を兼ねてぶっ放すか」
磯部は腰に吊った借り物の拳銃を引き抜くと、いきなり交番の薄明るいボックスめがけて引金を引いた。
パン、パァン・・・気持のいい爆発音が手許で起った。殺すつもりはない、ただ威嚇するだけだ。警官は受話器を放り出してしゃがんだ、と思うと机の下に這いつくばった。
「ハハハ、奴さん、肝をつぶしやがった!」
磯部と山本は笑い声をたてて、その場をはなれた。
そんな道草を喰ったので、二人は部隊におくれた。
五時五、六分頃 ── 陸相官邸に着くと、丹生部隊は邸内に入り込んで、それぞれの配置に整然とついていた。電灯に照らされた積雪の上には、靴あとが散乱している。
玄関の明るい電灯の下で、香田大尉と村中が、数名の憲兵を相手に押し問答をしていた。着剣した銃を持った憲兵たちが、それを取り巻くようにして、じっと見守っている。
磯部は割り込んで、中へ入った。
「とにかく国家の大事について、陸軍大臣に至急面会したいんだ・・・そう取次げばいいんだ!」
香田大尉と村中が、交わるがわる言い立てている。
磯部は二人の主張を聞いて、ふと可笑おかしさが込み上げた。二人は異口同音に「国家の重大事」という。重大事は、むしろ自分たちが無理やり起こしたものだ。それを香田と村中は、国家そのものの方に重大事があるかのように言う。厳密に言えばそれに違いないが、何かやはり可笑しいし、狡い。
── なかなかやりおる・・・いいぞ!
磯部は、ひとりニヤニヤ笑いをうかべて見守っていた。
軍曹の肩章をつけた憲兵は、青くいなったり、赧くなったりしている。彼は突発した事件を目の前にしてすっかりあがってしまい、どぎまぎして、ただ重い責任だけをぎこちなく感じている、といった塩梅あんばいだった。
「大臣に危害を加えるならば・・・」と憲兵軍曹は頬を硬ばらせて、繰り返した。「危害を加えるならば、私たちを殺してからにして下さい!」
それが精一杯のいい分であり、抗議であった。
「我々は大臣に危害を加えに来たのではない!」香田が高飛車に叱りつけた。「まして君達などを殺してどうするんだ・・・とにかく国家の重大事なんだ。早く会うように、大臣にそう言って来い!」
憲兵の一人が奥へ引っ込んだ、と思うと、丹前の上に羽織を着た、五十がらみの、品のいい婦人が現れた。川島陸相夫人である。夫人は、玄関先の物々しい気配にギョッとした様子だったが、さりげない風を装って、細いしわ嗄れ声で、丁寧に言った。
「どなた様でございますか」
「歩兵第一連隊第十一中隊長香田清貞大尉・・・国家の重大事について、陸軍大臣にお目に掛かりたいのです」
香田は威儀を正してそう言った。
「ハイ」と夫人は引取って、「折角でございますが、主人はただいま風邪で寝込んで居りますものですから、どなた様にもお目にかかれません」
「風邪でも、ぜひお目に掛からせていただきたお、国家の重大事ですから・・・時間を遷延せんえんすると、状況は益々悪化します」
「風邪でしたら、たくさん着物を着て、会っていただきたいんです」
わきから村中も申し入れた。
「でも、医師にとめられて居りますし・・・折角ですが・・・お断りいたします」
夫人の表面の態度はしとやかだが、芯は頑強だった。話は、なかなか纏まりそうにもなかった。
2022/03/20
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