磯部は手間取ると見て、その間を利用して正門その他の部隊配置を見て歩くことにした。何よりも気がかりなのは、輸送任務を担当している田中部隊の官邸到着が、予定よりも七、八分おくれていることだたた。田中部隊が到着し次第、トラック一台を赤坂離宮附近に差向け、四谷の斎藤内府邸襲撃を終えた安田優、高橋太郎両少尉の指揮する一隊を、つぎの目標である渡辺教育総監邸へ差向けねばならぬのだ。そして斎藤邸の襲撃は、もう済みそうな時刻であった。
磯部が官邸内のそちこちを見て歩いていると、野重七の田中勝中尉が磯部を探してやって来た。
田中は磯部の姿を見付ける無なり、
「面白いぞ！」と声をあげた。
彼は若々しい張り切り方で、意気軒昂たるものがあった。
磯部は田中に、直ちにトラック一台を赤坂離宮前に向け、渡辺襲撃隊に備えるように手配を命じた。
すると間もなく赤坂表町の高橋襲撃隊が、隊伍をととのえて帰って来た。── 指揮者は、砲工学校在学中の中島莞爾少尉である。
「どうだった？」
磯部が走り寄って聞くと、中島は若い顔を紅潮させて、
「やりました・・・完全に任務を果しました！」と告げた。
はじめ、この襲撃隊は、近歩三の中橋基明中尉の指揮で、下士官兵百二十名の一半を突入他意とし、他の一半は守衛隊控兵として今泉義直少尉をそに指揮に当たらせ、中橋はみずから突入隊を率いて高橋邸に乱入、蔵相高橋是清を殺害した。任務終了後、突入隊は中島莞爾少尉の指揮で三宅坂に引揚げ、中橋は待機の姿勢にあった今泉少尉の守衛隊控兵を指揮し、宮城警備の守衛隊司令官の許に赴き、その命令で坂下門の警戒に任じた。
つづいて首相官邸から、「岡田首相を完全にやった」という連絡があった。── だがこれは誤りで、殺したのは首相の秘書で義弟に当たる松尾伝蔵大佐であった。
首相官邸担当の栗原中尉は、同じ連隊の林八郎、池田俊彦両新品少尉および豊橋の教導学校から馳せつけた対馬勝雄らと共に、下士官兵約三百名を指揮して、官邸を襲撃した。護衛の警官四名は、この際敵せずと知りながらも勇敢な抵抗を行い、拳銃の全弾を撃ちつくして壮烈な殉職を遂げた。官邸内では非常ベルが鳴ったので、岡田首相はいちはやく女中部屋に逃れ、女中の機転で戸棚の中に押し込められ、女の衣類をかぶせられた。その時、松尾大佐は乱入の将兵を制止しようとしたが、警官との撃ち合いに殺気たっていた彼等は、大佐の容貌が似ているところから首相と見誤り、たちまちこれを仆して凱歌をあげた。女中部屋には叛乱軍の下士官が何人か入ったが、彼等はそこに一塊になって震えて泣いている女中を見出しただけで、戸棚の中も一応点検したが、女の衣粧をかぶせられていた首相を見逃してしまった。
── そうして岡田首相は二十八日まで叛乱軍の中に在ったが、福田秘書官と憲兵曹長の機転によって、弔問客に紛れ、死の囲みを脱出したのだった。
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| 2022/03/21 |
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