~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (下) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第八章 何もかも順調に行っている・・・成功だ
第八章 (6-05)
首相官邸からの連絡に続いて、斎藤内府襲撃の酒井部隊から、特別志願将校の麦屋清済少尉が伝来にかけつけた。
「斎藤内大臣を完全にやりました!」
麦屋はそう報告した。
歩三の坂井直中尉の指揮する斎藤襲撃隊は、同じ中隊の高橋太郎少尉、麦屋少尉、それに野重七の安田優少尉と共に、下士官兵約二百名を指揮して、青山墓地を経て斎藤内府邸に至り、先ず邸宅を包囲して、軽機関銃で女中部屋の戸を破壊し、雪崩をうって屋内に乱入した。内府の姿を見出すと、拳銃を乱射してこれを仆した。春子夫人が身をもって内府をかばったので、一時は将兵を躊躇させたが、気負い立った将兵の火蓋が切られ、夫人も凶弾に傷つき倒れた。
目的を達した坂井部隊は斎藤邸を出て、二手に別れた。時に五時二十分 ── 坂井と麦屋は主力部隊を率いて陸軍省に向い、高橋、安田少尉は部下約三十名を指揮して、次の目的地である渡辺教育総監襲撃に向かうためにお指定の赤坂離宮前に赴いた。
時計を見ると、田中部隊のトラックはすでに赤坂離宮前に到着している時刻であった。
「万歳だ」磯部は誰にともなく呟いた。「何もかも順調に行っている・・・成功だ!」
そこへ鈴木侍従長襲撃を担当した安藤大尉が、部隊の先頭に立って、颯爽さっそうと引揚げて来た。
磯部が走り寄って、
「やったか」
声をかけると、安藤は大きく肯いて、
「やった、やった・・・!」と答えた。
麹町の鈴木侍従長邸では、不意の襲撃にもかかわらず、侍従長夫人は沈着に将兵に応対した。
抵抗の無意味を知ったうえでの落着きであった。表と裏の二手から、闖入ちんにゅうしたのだが、侍従長の姿を見出すと、永田露と堂込喜市の両軍曹は、安藤大尉の「撃て」の命令一下銃を発射して、侍従長を昏倒させた。安藤大尉が軍刀を抜いて駈け寄ると、侍従長の呼吸はほとんど絶えているかに見えた。時々、痙攣的にビクリ、ビクリ・・・とするだけだった。安藤大尉が軍刀を擬して留めを刺そうとすると、それまで端然としていた孝子夫人が走り寄って、侍従長の上半身をかばうように掻き抱いた。
「どうせ助からぬ命です、どうぞそれだけは許して下さい」
夫人の愛情を込めての必至の懇願には、安藤も心を動かされた。個人としては何の憎しみもない間柄である。安藤は、夫人をはね除けるに忍びなかった。
「奥様のお言葉に免じて・・・」
安藤は軍刀を鞘に納めた。
それから夫人に土足で屋内を汚した失礼を侘び、部下に引揚げを命じた。
「どなたでございますか、お名前をお聞かせ下さいませ」
夫人はあくまで落着いた、しとやかな態度でたずねた。
「歩兵第三連隊第六中隊長・・・安藤輝三大尉です」
安藤は侍従長の骸合掌し、」夫人に一礼して、鈴木邸を後にした。
だが、完全に助からぬと思われた鈴木侍従長は、重傷にも拘わらず、その後奇跡的に生命を取りとめたのだった。
もうすっかり夜が明けはなれていた。
雪はいつの間にか止んでいたが、まだ降りた気な空模様で、暗鬱凄惨の気が三宅坂附近一帯の積雪の上にみなぎっていた。
2022/03/22
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